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2009.04.10 (Fri)

Aphex Twin「Selected Ambient Works, Vol. 2」

こちらも季刊ブログと化していた。一カ月以上おくと上に広告が出てしまうのだな。春になったので春号というわけではないが更新です。春号といえば、いま出ている『考える人』(新潮社)という雑誌が「ピアノの時間」(2009年春号)という特集で、その中の「私の好きなピアノ・アルバム、ベスト3」というアンケート原稿を頼まれた。奇をてらったわけではないが、その1枚にエイフェックス・ツインの『Drukqs』(ドラックス)というアルバムをとりあげた。そちらのほうでは紙面が限られていたので、ここでほかの作品のことも含めて、もう少し書く。

Drukqs
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Aphex Twin
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エイフェックス・ツインはピアニストではなく、強烈なドラムンベースで90年代のテクノ界を風靡した奇才とされているアーティスト。荒涼とした無機質な空虚感の中に、なにかたとえようもなく純粋な光景が見えてくるような不思議な音楽をつくる。激しく甘さのない機械的なビートで、人間には絶対演奏不可能なフレーズがつづくにもかかわらず、そこから想起されるのは深い静けさだったりする。




テクノはそんなに好きではないのだけど、エイフェックス・ツインがつくりだす風景は、少なくともいまとのころ、ほかの音楽からは得られない。Capsuleなどとはまったくちがうし、数多のテクノのグループともちがう。エイフェックス・ツインだけの風景である。ジャケットは本人(Richard D. Jamesというのが本名)なのだろう、邪悪な笑いを浮かべた顔が使われているものが多い。あまり飾りたくはないが、この邪悪さは嫌いじゃない。

Richard D. James Album
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ただし、このジャケットはあまり好みじゃあないな。↓

Windowlicker
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『Drukqs』は基本的に脳髄に突き刺さるような無機質で激しい音楽がつづくのだが、中に不意にピアノ、それもおそらくプリペアド・ピアノで演奏された短い曲がまじる。それが本当にこよなく美しい。ただし、その曲だけを取りだしても、あまり意味がなく、この激しい甘さのない世界がつづく中で、不意にそのピアノが現れるのがなんともいい。この短い、シンプルな曲を際だたせるために、全体があるようなそんな音世界がアルバムに広がっている。




耳ざわりのいい曲だけを集めたベスト盤というのもありだとは思うが、いまや世の中がみんなそんなのばかりではないか。クラシックの名曲を集めたものとか、それでも飽きたらず数十秒の名フレーズを集めたものとか、そんなにも時間が惜しいのかよといいたくなるほど無駄を廃したベスト盤ばかりで、なんだかなあという気もするのだ。でも、そんなベスト盤みたいな目で世界を見ていては、やはりだめだと思う。薔薇ばかり咲いている花畑では、一つひとつの薔薇なんて見ない。でも、砂漠の中に、たった一輪だけ咲いている薔薇の花なら、それが心に訴えかけてくるものはぜんぜんちがう。「星の王子様」にもそんな一節があったな。そんなこともあって、『Drukqs』をピアノの名盤として取り上げた。


でも、エイフェックス・ツインで、いちばんの傑作は、『Selected Ambient Works, Vol. 2』だと思う。

Selected Ambient Works, Vol. 2
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アンビエントというと、ブライアン・イーノとかハロルド・バッドとか、あとの癒し系にもつながるような音楽を思い浮かべる人も多いだろう。イーノはけっして、癒し系ではないと思うのだけど、中には聞きやすく、癒しにつながるような作品も多いし、全体として見れば精神を安定させるような音世界だ。しかし、この作品はちがう。ここにあるのは、アンビエントといってもひたすらな不安や怖れだ。怖れといっても、現代音楽にありがちなホラー映画のバックに流れているような音楽ともちがう。クラウス・シュルツや初期のタンジェリン・ドリームともちがう。あちらは異次元というか時間的・空間的に遠く隔たった異界を彷彿とするが、エイフェックス・ツインのこの音楽は、すぐそばで鳴っているような気がしながら、そこには絶対にたどり着けないような妙な距離感が伝わってくる。なんというか、そこに広がるのは、やはりエイフェックス・ツインでしか見えてこない風景なのだ。


透明で穏やかな茫洋としたフレーズともいえないフレーズが漂うように拡散していく。なにかを形容しているわけでもなければ、象徴しているわけでもない。感情にしても、思考にしても、イデオロギーにしても、そうしたこの世界にあるものの形をいっさいなぞろうとしていない。あらゆる予定調和からはるかに遠い。それでありながら、あるいはそれだからこそなのか、そこから広がる音世界はなんともいえなく物悲しい。悲しいのだけど、カタルシスがあるわけではなく、輪郭のない不安がどこまでも冷たく広がっているような乾いた物悲しさだ。


死というものにいちばん近い音楽があるとすれば、こんな音楽かもしれないと思う。ブライアン・イーノのアンビエント・シリーズのタイトルは「Music fot Airports」だったり、「Music for films」だったりしたけれど、これは「Music for the dead」とよびたくなる音楽だ。ただし、レクイエムではない。レクイエムとは、この世からあの世への視線で書かれている気がするのだが、これはちがう。むしろ、あの世からこの世を見つめるような視線を感じてしまう。しかも、そのあの世というのはすぐそばにありながら、あるいはこの同じ空間上にありながらも、けっしてふれることのできない、そんな形で存在しているもののような気がする。死者の存在というのは、そういうものなのではないかとも思う。もっとも、これは勝手な妄想だけれど。


2枚組で一曲一曲が長いし、動画で見たり聞いたりするような音楽ではないし、だれにでも薦められるようなものでもないけれど、自分にとってはとても大切な音楽だ。思考や感情の平衡感覚を見失ったとき、このアルバムを聞くと、すーっといろんなものが鎮静していく。鎮静しすぎてしまうのが怖い。


今後はせめて週刊になるようにします。
ちなみに『考える人』はこれ。↓






テーマ : 本日のCD・レコード ジャンル : 音楽

02:00  |  techno  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.12.30 (Tue)

Popol Vuh「Hosianna Mantra」

この前本屋にいったら、capsuleの中田ヤスタカが表紙を飾っている雑誌が目に入った。『MARQUEE』という雑誌だった。MARQUEE? それは記憶にある雑誌だった。1980年代前半だから、いまから25年(!!!)ほど前、ぼくはこの雑誌の熱心な愛読者だった。しかし、当時のMARQUEE(その前身は『MARQUEE MOON』)は、こんなメジャーな音楽を扱うものではなかった。それはユーロピアン・プログレをメインとしたマニアックな超マイナーな音楽専門誌だった。

ほんとうに、あの『マーキー』なのか? 調べてみると、いろいろ中断はあり、中身もすっかり様変わりしたが、たしかにあの『マーキー』の末裔らしいことがわかった。B5版月刊誌だった『マーキー・ムーン』がA4版の不定期刊の『マーキー』になり、いつしか見なくなってしまったのだが、こんな形で復活していたとは。超マイナーな世界を扱っていた雑誌なのに、ずいぶん変わったものだ。きっと、いろいろあったのだろう。

あの頃、先鋭的なロック音楽雑誌の筆頭は渋谷陽一編集の『ロッキング・オン』だったが、ロッキング・オンが光を当てないマイナー・プログレを扱う雑誌として知られていたのが北村昌士編集の『フールズ・メイト』だった。その『フールズ・メイト』よりも、さらに耽美的で、独自の世界を追求していたのが山崎尚洋編集の『マーキー・ムーン』(のちの『マーキー』)だった。『フールズ・メイト』と『マーキー・ムーン』は両方とも買っていたが、好きだったのは『マーキー・ムーン』だった。

左が「マーキー・ムーン」、右が「フールズ・メイト」
左が「マーキー・ムーン」(1983)、右が「フールズ・メイト」(1980)

『マーキー・ムーン』は不思議な雑誌だった。初めはマイナーなヨーロピアン・プログレを扱っていたのだが、編集長の趣向もあって、メシアンのような現代音楽、ヨーロピアン・トラッドの世界、さらに晩年のシューマンなど、じつに幅広い範囲の音楽を取り上げるようになった。記事にはオカルティズムをめぐる難解な評論があったり、現代音楽家の松平頼暁さんの連載があったり、ルネサンスの音楽家ギョーム・デュファイについての論考やら、ガムラン音楽講義などがあったり、おまけとしてソノシートまでついていたりして、とにかくカバー範囲が広かった。「香りの音楽」と題して、イーノのアンビエントとはまたちがう美意識に貫かれたコンセプトを提示していたりもした。

ぼくはこの雑誌で、ユーロピアン・プログレのみならず中世のポリフォニー音楽や、スーフィーの音楽や、さらに西洋文化の背景に流れる隠秘学の伝統など、じつに多くを学んだ。教会音楽からロック、現代音楽をつらぬく有機的なつながりのようなものを意識するようになったのも、この雑誌のおかげだった。そして、この雑誌のレビューで紹介されているレコード(それは大きなレコード店ではまず置いていなかった)を求めて、明大前のモダーン・ミュージックとか、恵比寿のパテ・レコードなどに足繁く通った。ときに、中古なのに1枚8000円もする「幻の名盤」というのを、さんざん迷ったあげく買っては、自己満足にひたったり、逆に、ありゃこんなもんか、やられたーとほぞをかんだりする、というのをくりかえした。

それでも「マーキー・ムーン」編集長の山崎尚洋さんのレビューは、ぼくにとってもっとも信頼のおけるものだった。それは繊細な美意識と熱い思いにあふれた、知的でありながら昂揚感をさそう文章だった。たとえば、彼がとくに推していたドイツの「ポポル・ヴフ」(Popol Vuh)というグループの「Hosianna Mantra」という作品についてのレビューは、こんなかんじだ。

「……アカデミズムやヒエラルヒーに一切とらわれることのない教会音楽があるとすれば、それがポポル・ヴフの音楽であるといえる。あらゆる現実とのしがらみから手を切り、精神の深みからわき出る情感を音に表現するメソードは、真に自由であり、歴史、現実、カテゴリーといったものから解き放たれた神秘の世界でもある……」(MARQUEE MOON 013より)

Hosianna Mantra
Popol Vuh「Hosianna Mantra」

かっこいい! これですっかりやられて、ぼくもポポル・ヴフのレコードを探し求めた。それはレビューにたがわず、まさに当時の自分が求めていた音楽だった。マヤの聖典の名を冠したこのグループはロックというには程遠い、いまでいうアンビエントやミニマルにちかい音楽をつくっていた人たちなのだが、そのころはそうしたカテゴリーもそれほど普及していなかったため、まとめてひとからげにドイツのプログレということになっていた。しかし、ピアノとソプラノとギターというシンプルな編成からつくられるその音楽は、緊張を内に秘めた耽美的な静寂と土俗的な呪術性をはらんだ、それまで耳にしたことのないサウンドだった。

『マーキー・ムーン』を通じて、ポポル・ヴフの音楽をドイツの映画監督のヴェルナー・ヘルツォークがたびたび使っていることを知った。『ノスフェラトゥ』も『アギーレ』もそうだった。なんだかすごい秘密を発見した思いで、ぼくはヘルツォークの映画の上映会を探しては足を運んだ。


ちょうどその頃、ヘルツォークの『フィッツカラルド』という作品が封切られた。これはアマゾンの密林の中にオペラハウスをつくろうとした男の狂気を描いたものだが、その音楽を手がけていたのもポポル・ヴフだった。大地から湧き起こるような神秘的な音楽は、ヘルツォークの描く深い密林の映像におどろくほど合っていた。これがそのテーマ音楽だ。もっとも、動画の映像は雰囲気は似ているが映画のとはちがう。



フィツカラルド [DVD]
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また、ポポル・ヴフのリーダーであるフローリアン・フリッケが、同じくヘルツォークの名作『カスパーハウザーの謎』に盲目のピアニストの役で出演しているのを見たときは、だれも知らない秘密をしったようなひそかな快感に酔った。だれも羨ましがらないだろうけど。

カスパー・ハウザーの謎 [DVD]
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とはいえ、ヘルツォークの多くの映画の主演をつとめたクラウス・キンスキーは1991年に亡くなり、フローリアン・フリッケも2001年に亡くなり、ポポル・ヴフの活動は終わった。ヘルツォークもキンスキー亡き後は、なんとなくぱっとしない。『フールズ・メイト』編集長だった北村昌士さんも数年前に亡くなった。『フールズ・メイト』はいまも健在だそうだが、流行りのJ-Popを扱う、以前とは似ても似つかないものになってしまったというし、『マーキー』もすっかり変わってしまった。

ポポル・ヴフの音楽にあれほどひかれていたのは、そこにあふれる官能的な宗教性や荘厳な静寂のためだったのだろう。しかし、フローリアン・フリッケが亡くなり、彼らのあとを継ぐようなグループもなくなったいま、その音楽を聞いて感じるのは、ひたすらな孤独だ。山崎尚洋さんが書いたように、それは「アカデミズムやヒエラルヒーに一切とらわれることのない教会音楽」であり、「あらゆる現実とのしがらみから手を切った」音楽かもしれないし、その意味ではたしかに自由だ。しかし、その自由はどうしようもなく孤独な自由だ。

80年代の初め頃、ヘルツォークがヴィム・ヴェンダースらといっしょに来日したときに行われたシンポジウムのあと、ぼくはヘルツォークに直接、訊ねたことがある。「どうしてあなたはポポル・ヴフの音楽を使うのですか」と。ヘルツォークは「私は彼らの音楽だけを使っているわけではありません。ワーグナーやモーツァルトも使います。けれども、私の映画にはフローリアン・フリッケの音楽は欠かせないのです。彼の音楽以上のものが私には考えられないのです」と答えた。それは答えになっていないような答えだったけれど、いまになってみると、ヘルツォークがいっていたことは、なんとなくわかる気もする。

ヘルツォークがポポル・ヴフの音楽を使った映画は、いずれもだれにも理解されないような孤独な人物をあつかったものばかりだ。アマゾンにオペラハウスをつくる夢にとりつかれたフィッツカラルドも、密林に妄想の王国を夢見たアギーレも、18世紀の奇人カスパーハウザーも、クラウス・キンスキー扮する孤独な吸血鬼ノスフェラトゥも、『ガラスの心』の予言者も、自由だけれど、だれの共感も得られることのない水のような哀しみを背負った主人公たちだった。それはとりもなおさず、ポポル・ヴフの音楽そのものだった。自由であるがゆえに、群れることも、形をとることもない、その孤独なもの哀しさが、いかに彼らの音楽にはあふれていることか。


これはヘルツォークの「アギーレ」の冒頭シーン。音楽はポポル・ヴフ。

プログレバンドの多くが、パンクやニューウェイブなどの流行のなかで音楽性を変えていったが、ポポル・ヴフは変わらなかった。フローリアン・フリッケは音楽の世界にシンセサイザーが導入される以前にシンセを使い、その可能性が注目されはじめた1970年代の初め頃には、それに見切りをつけて巨大なモーグのシンセをクラウス・シュルツに売り払い、完全なアコースティックに回帰していた。時代性の中で、彼らの音楽を位置づけようとするのはほとんど意味がない。それだけに音楽メディアにとりあげられることもほとんどないまま、フローリアン・フリッケの死とともにポポル・ヴフは忘却されかけている。そういうことだったのだろうかーーとヘルツォークのいった言葉をぼくはいまさらながらに思い出している。

アギーレ・神の怒り [DVD]
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テーマ : 本日のCD・レコード ジャンル : 音楽

02:15  |  progressive rock  |  TB(0)  |  CM(6)  |  EDIT  |  Top↑

2008.12.13 (Sat)

Chick Corea & Hiromi 「Duet」

Perfume、capsuleと今年出た作品がつづいているが、今回も2008年発売のもの。上原ひろみとチック・コリアの「デュエット」である。

デュエット(初回限定盤)(DVD付)


デュエットといっても、このジャケットの二人が「銀座の恋の物語」みたいに歌っているわけではない。この二人はジャズ・ピアニストであり、ピアノで即興のデュエットを演奏しているのである、と書きながら思うのだが、これを読んでいる人の中にはジャズなんてまったく聞かないという人もいるかもしれないし、逆にいまさら上原ひろみだなんてという人もいるかもしれないので、どういうスタンスで書けばいいのか少し悩むところもあるのだが、とりあえず初めて名前を聞いた人でも、なんとなくついてこられるくらいの距離感を保とうとは思っています。というのも、ジャズについて使われるエクリチュールというのは、最近はそうでもないのだが、かつては本当に排他的だったからだ。

たとえば、こんなの。
「フリー・ジャズの問題は、フリー・ジャズがジャズという音楽的階級性とジャンル的限定性の中でとことんまで地獄を味わうことにこそ有効性があり、そこにジャズをアウフヘーベンする可能性があるはずだからなのだ(以下略)」

あるいはこんなのとか。
「ソロは二重の意味で本来的に危機的な形態である。それは状況論的なレヴェルと存在論的なレヴェルにおいて言えるだろう。状況論的にいうならばソロの出現は失われつつあるか、不明確になった演奏を支える共同性と文化へのまさぐりとして考えられる(以下略)」

これはいまは亡きジャズ評論家、間章氏の文章の一節で1970年代に書かれたもの。間章氏は一部の人たちの間ではカリスマ的な評論家とされていて、その文章は難解なうえマルクスからスーザン・ソンタグからミシェル・フーコーまでばりばり引用されている。でも、これがわからないとジャズがわからないのかと思って、ぼくもアルバート・アイラーとか、セシル・テイラーとか、いま聞くとかなりしんどいフリー・ジャズを聞きながら、彼の文章を読んだものだけど、じつをいうとちんぷんかんぷんだった。ただ、ちんぷんかんぷんだといえないので、人には、「やっぱり間章を読まなきゃジャズはわからないよ」とかうそぶいていた。でも、いまだからいうけど、さっぱりわかりませんでした。

もちろん当時のジャズ評論がみなこんな難解さにあふれていたわけではないが、どうしてもかつて、ジャズを聞くという行為には追いつめられた暗い影のようなイメージがつきまとっていた。実際、ジャズ・ミュージシャンといえばロック・ミュージシャン以上に生活が荒れていて、ドラッグ中毒で命を失うはめになった有名演奏家はいくらでもいる。逆に、健全な市民生活を送っていたり、酒もタバコもドラッグもやらないミュージシャンの演奏なんてだめだ、という見方もあったように思う。もっとも、これも当時の時代環境からすると、あながちまちがいではなかったとも思う。既成のシステムや考え方への反撥というのは、ロック同様ジャズを進化させる大きなファクターだったし、そこで多くのミュージシャンがしのぎを削っていたのはたしかだ。

それにくらべると、いまのジャズは健全になった。それも当然で、新しい音楽をつくるためのブレイクスルーの方向性が、80年代以降、相当変わってしまったからだ。もはや、酒やタバコやドラッグをやらなくても、生活を破綻させなくても、音楽に向き合うことが可能になった。でも、それ以前のジャズ好きは、どこかでやはり最近の健全なジャズに違和感を抱いている。だから、上原ひろみがしょっちゅうテレビに出て、あの夏の太陽のような笑顔で、まるでマラソンの高橋尚子のように前向きな発言をくりかえしていると、どこか納得できないものを感じるのだろう。その魔術的までの流麗なテクニックは認めても、「これはジャズではない」といわずにはいられないのだろう。その気持ちはわからなくもない。実際、最初に彼女のReturn Of Kung-Fu World Championを聞いたときはプログレだと思った。XYZという曲なんてキース・エマーソンが書きそうな雰囲気である。

上原ひろみは明るい。上原ひろみというだけで大きな口を開けて笑う彼女の、真夏の太陽のような顔が浮かんでくる。でも、それはぼくが彼女の演奏を映像をとおして知ったからだろう。もし、映像を介さずに、その演奏だけを聞きつづけていたならば、たぶんかなりちがった印象を受けていたかもしれない。たしかに上原ひろみの弾くピアノはパワーにあふれているし、元気だし、ぐいぐいとひっぱっていくようなドライブ感にあふれているし、テクニックはスーパーとしかいいようがない。ただ、そこには映像をとおして見たときには忘れてしまいがちな暗さというか、不条理性というか、ひねくれた狂気がたしかに伝わってくる。しかも、その暗い狂気は相当に深い。それは昔のミュージシャンのような社会や哲学にからんだものではなく、もっと音楽的にピュアな狂気とでもいうのだろうか。けれども、映像を通してみると、彼女のめっぽう元気のいいパフォーマンスや、インタビューに答えるときの気恥ずかしくなってしまうほど前向きな受け答えのせいか、そうした影があまり感じられなくなってしまう。

それはさておき、Duetである。これはチック・コリアと上原ひろみが二台のピアノでほとんど打ち合わせなしにデュエットした作品で、CDに加えて2曲分のライブ映像を修めたDVDがついている。DVDにはチックの代表作の一つである「スペイン」が収められているが、同じものがCDにも入っている。で、CDで聞くのとDVDを見ながら聞くのとでは、かなり印象がちがってしまう。むろん映像付きの方が圧倒的に楽しい。これは当然なのかもしれないが、逆にいうと彼女の視覚的な演奏シーンが圧倒的すぎて、耳から入った音楽からの想像力による刺激がそれに及ばないというのは聞いていて、少し残念でもある。それはぼくがライブとかコンサートというのに、あまり興味がなく、もっぱら音をとおして想像力を刺激されるほうが好きなせいもあるのだけれど、上原ひろみの場合、やっぱり演奏しているところが見たくなるのだ。でも、そうすると音楽を聞いているというより演奏を音といっしょに「見ている」ようなかんじで、なんとなく悩ましい。そんな悩ましさをおぼえつつも、上原ひろみが好きなので、やっぱり映像を集めては見まくってしまうのである。

「スペイン」のデュエット演奏はいくつかバージョンがある。下のはDVDのではなく、テレビ出演したときのバージョン。そのかけ合いはほとんどエロチックといっていいほどになまめかしい。チック・コリアがスペースをつくったところに上原ひろみが自在に音をちりばめていったり、視線をからめあいつつ、互いに出方をうかがいつつ、新しいフレーズやリズムを刻みだしていったりするところなど、おい、そんなことしていいのか、セクハラではないかと思わせるほどにいやらしく、すてきだ。これは耳で聞いているだけではわからない。





ちなみに、あるインタビューで、彼女が影響を受けた音楽として挙げていたのが
グレン・グールドのゴールドベルク変奏曲(晩年のやつ)
エロール・ガーナー「CONCERT BY THE SEA」
スクエアプッシャー「Hard Normal Daddy」
フランク・ザッパ「Waka/Jawaka」
ジェフ・ベック「Wired」
スティーブ・ライヒ「Six Marimbas」
Oval 「Ovalprocess」
Four Tet「Rounds」
などだ。

いわゆるジャズの名盤が、彼女が初めて聞いたジャズであるエロール・ガーナーしかないというのが面白い。もちろんあえて挙げなかっただけだろうけれど、それ以外のセレクションもバラエティに富んでいる。ジェフ・ベックやザッパ、スクエアプッシャーはなんとなくわかるが、ミニマル系のオーバルやスティーブ・ライヒが好きとは意外だった。まあ、聞いている音楽がなにかなんて自分のやっている音楽とはダイレクトに結びつくものではないのだが、ちょっと面白い。Four Tetというのは知らなかったが、オーバルに近いミニマム・テクノのようだ。

動画サイトから好きな演奏をいくつか。最初はXYZ。緊張感にあふれていて手弾きのスクエアプッシャーという感もなくもない。髪の毛、爆発してます。左手のピアノのフレーズ、EL&Pのタルカスっぽい。





これは彼女が好きだというブルース・リーやジャッキー・チェンへのオマージュとして書かれたというReturn Of Kung-Fu World Champion。後半ののびやかなシンセソロがいい。






これは春にNHKに出演したときに弾いた「さくら」をテーマにした即興ソロ。こういうリリカルな演奏もとてもいい。



それでも少しだけ気になるのだ。もし間章氏が生きていて、彼女の演奏を聴いたとしたら果たしてなんていっただろうかと。

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02:32  |  jazz  |  TB(0)  |  CM(1)  |  EDIT  |  Top↑

2008.12.02 (Tue)

capsule「MORE! MORE! MORE! 」

Perfumeのつぎはcapsule(カプセル)である。capsuleはPerfumeの作詞・作曲・プロデュースを手がける中田ヤスタカが、ボーカルのこしじまとしこ(通称「こしこ」)と組んでいるユニットだ。Perfumeが好きになって、そこからcapsuleに行くというのは、いってみれば冬のソナタから韓流のほかのドラマに手を伸ばすというパターンに近い。いわば王道である。いや、capsuleのほうがオリジナルだから、ある意味、「ぱちんこ冬のソナタ」に初めに出会い、その後、本家であるドラマ「冬のソナタ」を知るという本末転倒なパターンなのかもしれない。

capsuleはいわゆるクラブ(「ひよこクラブ」のクラブとは発音がちがう)を中心に長年活躍している人気ユニットである。以前からクラブに出入りしているような人たちの間では、すでにコアな人気を誇っていたらしい。昔からのcapsuleファンたちは、「Perfumeからcapsuleに来た連中なんて新参者、所詮外様よ」と思っているかどうかはわからないが、Perfume人気でcapsuleの新しいファンがどっと増えたのはたしかだろう。

ぼくの場合は、以前渋谷のクラブに行ったときのヒップホップな経験を書いたこともあるので、譜代とまでは行かないまでも薩長にくらべれば、外様であってもやや格上といっても、さしつかえないかもしれない。

で、このcapsuleなのだがカッコいいのだ。初期の頃はレトロでかわいげな雰囲気なのだが、最近のものはといえばPerfumeの甘さを取り去ってジンとベルモットを加えたドライマティーニのようなサウンドなのである。クラブミュージックというか、エレクトロニカと呼ばれるシンセとコンピューターでつくった音楽はわりと好きだが、capsuleはその中でもひときわドライでカッコいい。語彙が貧しくて情けないがカッコいいとしかいいようがない。中田ヤスタカもカッコいいし、こしじまとしこはレトロでコケティッシュな雰囲気がいい。越島稔子という重たげな本名もいい。こんなかんじのユニットである(アルバムはFLASH BACK)。うーん、カッコいい。

FLASH BACK

カッコいいとはどういうことか。それはおそらく時代の流れをとらえているというだけではだめで、どこかそこに挑発するようなずれや毒があることが必要なのだろう。たんに心地よいだけではなく、どこか苛立たせるような激しさとか、突き放すような冷酷さとか、そういうものが気持ちよさの背後にあることが条件なのだろう。capsuleの音楽はそのあたりのバランスがじつにいい。ウイスキーでもブランデーでもワインでも焼酎のホッピー割りでもなく、カクテル、それもドライでシュガーレスなカクテルなのだ。

Perfumeからcapsuleに手を出してSugarless GiRLFLASH BACKFRUITS CLiPPERcapsule rmxといった最近のアルバムをのきなみ聞きまくり、PerfumeにくわえてまたiPod、カーオーディオもcapsule三昧になって、家でも食器を洗いながらcapsuleだし、洗濯干しながらcapsuleであり、近所のスーパーに自転車で大根を買い物に行くときもcapsuleだ。大根とネギをママチャリの前カゴに入れて走っていても、そんな自分がおしゃれだと勘違いさせてしまうのがcapsuleの怖さである。もちろん食事のときもcapsuleで、さすがにそのときは家人から「食事向きの曲ではない!」とクレームがつくが、そんなのはシカトだ。

で、つい先日新しいのが出た。これはシャンプーのCMでもつかわれている「More More More」という曲がアルバムタイトルになっている作品である。

MORE! MORE! MORE!(初回生産限定)(DVD付)


この中にJumperという曲が入っていて、これのPVが動画サイトで見られる。これがまたカッコいい! PVとしてはシンプルだし、世の中にはほかにもっと完成度の高いPVも存在するし、冷静に見たらいろいろ批判的なこともいえるのだが、いまはかっこよさしか見えない。このPVも中田ヤスタカの作品らしい。




PVの中で、ゲゲゲの鬼太郎に出てくる猫娘みたいな格好をした女の子たちがグルジェフダンスみたいなカクカクしたダンスをするところもいい。重低音のブレイクのところで、中田ヤスタカが両手を広げて千手観音みたいになるところも、ちょっと笑っちゃうんだけど、そのズレたかんじがいい。

でも、いちばん好きなのはボーカルのこしじまとしこが頭を最初は静かに揺らしはじめ、それから徐々に激しくなっていくところだ。おかっぱの金髪が左右に激しく乱れて、ひるがえった髪に光がきらめくところなど美しくてため息が出る。Perfumeでもそうだったが、女の子になって金髪に染めた髪を振り乱したい。ほかの曲のPVやライブの動画などを見てもそうなのだが、Perfumeとは対照的に、こしじまとしこは凝ったダンスはしない。シンプルに体を揺らしたり、飛び跳ねたりするだけの素人くさいダンスなのだが、そのシンプルな体の揺らしが、じつにぞくぞくかっこよく見える。彼女がしている片目に黒いバッテンのついた白いゴーグルもほしい。

もっとも、アルバムとしては、こんどのMore More Moreもいいのだが、FLASH BACKのほうが全体としての統一感の高さが感じられる。Electric light Moon light なんて都会の夜のかっこよさが匂い立ってくる。また、capsule rmxの中のSugarless GiRLのリミックスバージョンもめくるめくような乾いた疾走感がいい。とくに、あ~あ~あ~あ~あ~あ~というリフレインのところがぞくぞくする(下の動画参照)。



capsule rmx


capsuleを聞くようになってから、またクラブというところに行ってみたくなったのだが、ネットでcapsuleの出演予定のクラブの情報など見ると、始まりが夜の11時である。なんでそんなに遅く始まるのか。うちへ帰れなくなってしまうではないか。でも、きっとそういうことを考えてしまうのがダサいんだろうな。クラブの譜代たちは朝までいるのがあたりまえなんだろうが、やや外様としては家も遠いことだし終電までには帰りたい。となるといられる時間がかぎられてしまう。

あと気になるのは、クラブの独特な雰囲気だ、前回はチーマーに袋だたきにはされなかったものの、はて、中にいる間なにをしたらいいものなのか身の置き所がなかった。用語もよくわからなかった。ドラッグクイーンという女の人たちが出てきたのだが、あれはなんだったのか。ドラッグっていけないものなんじゃないか。彼女たちは棒にからみつくようなダンスをしていたが、あれは最終的にどうなってしまうのか。いけないことにはならないのか。おひねりとかあげないといけないのか。そういうことは終電前に帰ってしまった身には永遠の謎である。

あれから数年たって、また新しいクラブ用語なんかもできているだろうし、それがわからないと中に入れてもらえないということはないのか。そんなわけで、できれば、だれか粗相のないようクラブの作法を教えてくれる人といっしょに行ってみたいのだが。でも、終電があるからな。よい子とよいおやじのための夜7時くらいからやるクラブってないんでしょうか。

テーマ : おすすめ音楽♪ ジャンル : 音楽

10:41  |  Japan Pops  |  TB(0)  |  CM(1)  |  EDIT  |  Top↑

2008.11.26 (Wed)

Perfume First Tour「GAME」

このブログは自分が聴いている音楽についての覚え書きのようなものである。ほかに「王様の耳そうじ」というブログがあるのだけど、そっちは個人的な趣味はあまり入れないという原則でやっていたので(実際はそうでもないんだけど)、もうひとつ発作的につくってみた。

あっちのほうだって更新が滞りがちなのに、もう一つやってどうするという気もするのだが、気分も変わるんじゃないかと思って、やってみることにした。原則的に毎回、CDを取り上げるという形式になると思うが、レビューというよりその音楽をネタに思いつくことを書いてみるというものになると思う。

Perfume First Tour 『GAME』
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一回目はPerfumeのPerfume First Tour「GAME」(DVD)。なぜPerfumeなのかというと、日本の旬なアーティストのアルバムを予約して買ったのは、生まれて初めてだったからだ。旬なものに浸って、時代とシンクロする快感というのを知ったのもPerfumeが初めてだった。

きっかけははっきりしていて、YouTubeにあがっていた「シークレットシークレット」という曲のプロモーション・ビデオをなんの気なしに見たことだ。



冒頭、バスドラの音ともにのっちがぱっと目を開けて、シルエットになったタテ乗りのダンスがはじまったときには、不意打ちを食らったように背筋がぞくっとした。なんだ、これは。巧妙な演出と無機的で不思議なダンスに思わず見入ってしまった。

J-Popはほとんど聞かない。街を歩いていて、メガヒットしているらしい曲が流れていて、ああ、こんなのが流行っているのかと思う程度で、すすんで聞きたいと思うことはなかった。だから、シークレットシークレットのPVの衝撃は自分でも思いもよらなかった。

それから毎日、一カ月くらいは毎日なんどもこのPVを再生して、束の間の陶酔にひたった。これまで女性になりたいと思ったことはないけれど、これを見たときは自分も女の子になってシークレットシークレットを踊りたいと気持ち悪いことまで考えた。iPodもカーオーディオもperfumeづくしで、コピーしてピアノでも弾いた。くりかえし動画を見ているうちにPVの細部まで脳裏に焼き付いた。

PV中、イメージシーンでダンスが中断する場面があるが、ステージではその間どんなダンスがくり広げられるのかが気になって仕方がなく、動画サイトをあたっては、その見ることのできないダンスがどんなものなのかを探した。たぶん同じようなことを思っていたファンもいるだろうから、レコード会社側もうかつにライブの映像など流出させない。そんなわけでずっと落ち着かない気分でいたので、ライブのDVDが出ると聞いたときは、迷わず予約した。そのころにはPerfumeの歴史から、各メンバーの性格から、それぞれの曲のダンスの動画から、Perfumeの曲がエンディングにつかわれていたBSフジの深夜ドラマまで網羅していた。りっぱなミーハーである。

なんでこんなに熱病のようにPerfumeに魅せられたのか、よくわからない。もっとも、そういうのはぼくだけでないらしく、それまでJ-popなんてバカにしていた同じく40代くらいのおやじどもが、けっこうPerfumeにはまっているとも聞いた。一説には、彼らがかつて聞いていたYMOやクラフトワークなどのテクノを思い出させるからだともいわれているらしい。だが、これは怪しい。自分もYMOやクラフトワークはそこそこ聞いていたけれど、当時YMOやクラフトワークの人気なんてたかがしれていた。少なくともぼくのまわりではサザンを聞いている人に比べれば、YMOファンなんてごくわずかだった。

Perfumeの魅力をつくってるのは、作詞作曲プロデュースにあたっている中田ヤスタカのつくる曲のよさもあるだろうし、クラブミュージックをベースとし、アナログシンセやボコーダーをつかったサウンドのレトロめいた新鮮さもあるし、無機的でありながら複雑なダンスの魅力もあるだろう。また、3人組の若い女の子でありながらも性的なものを感じさせないキャラクターなどもあるだろうし、過剰なイメージ戦略などのあざとさを感じさせないせいもあるだろう。それでも、この熱病の理由がそれで解けた気はあまりしない。

そのときふと思ったことがある。ひょっとして、これって、数年前のヨン様ブームに似ていないか。むろんヨン様ブームの規模には及ばないものの、数年前、大量のおばさまたちがヨン様にはまったのと似たような力学が、おじさんのPerfume熱に見られるのではないか。

ヨン様ブームがあんなに広がったのは、コアな芸能ファンだけではなく、どちらかといえば芸能ニュースに対してそれまでほとんど関心のなかったインテリおばさま層がヨン様に魅せられたからだと聞いたことがある。芸能情報や女性週刊誌とは無縁だった彼女たちは、知的でピュアな印象を与えるヨン様に、現実の夫や子どもや社会に対して見られない夢を託し、それがのちの韓流につながる一大ブームにつながった(のかな?)。

Perfumeファンの40代以上のおじさんたちにも同じような傾向が見られるのではないか。実際、Perfumeが中田ヤスタカのプロデュースになってしばらくして、ライブに来る人たちの層が変わったと、メンバーが、どこかのインタビューで話していた。それまで集まるのはどちらかといえばださいオタク系が多かったのが、にわかに、ファッションやセンスのいい、かっこいい中年のお客さんが増えてきたというのだ。もっとも、その「かっこいい中年」に自分が含まれるかどうかは別の話である。

ヨン様ファンと同じく、Perfumeファンのおじさんの中には、ふだんは歌謡曲やJ-popなど聞かず、どちらかといえば別ジャンルの音楽を聞いてきて、そこそこインテリでおしゃれだったりして、けれども、現実の妻や子どもや社会に対しては、けっこう夢を失っていて、かといってアイドルとかオタク趣味に走るにはどこかブレーキがかかってしまうというタイプがけっこういるのだろう。Perfumeには、そんなおじさんたちの夢をかきたて、ときめかせるものがある。それはフェティッシュなオタク性や、少女趣味とはちがう。あえていうなら、おやじの中の少年性を甦らせてくれる、なにかせつない感情を刺激されるのだ。それは歌詞が基本的に男の子の視点から書かれていることとも関係があるかもしれない。

Perfumeを聞くとき、おじさんはおじさんの視点から彼女たちの曲を聞くのではなく、かつて少年だった自分にたちかえって、その世界に入っていく。そのときの少年は、現実の自分の少年時代とはかならずしも一致しない。現実の自分は多分にもっとダサくて、さえなかっただろうが、ここでは、ほんとうはこんなふうでありたかったという少年になって、実際には経験したこともない思いに浸るのかもしれない。アーティフィシャルで元気のいいPerfumeの音楽世界は、そんな夢を見るのを可能にしてくれるのだ。


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