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2012.06.09 (Sat)

新居昭乃「Our Children's Rain Song」

また1年近く空いてしまった、と1年前のエントリーでも書いている。年刊化は避けたいといっていたのに、3年で3回更新では言い訳のしようもない。。。ところで1年前というと、東日本大震災のあとの非日常的な空気がまだ日本中を覆っていた時期で、ちょうどいまくらい(昨年の6月上旬)には津波で家を流された東北の友人のところへ物を運んだりしていた。


車のiPodにはPerfumeとかLady Gagaとか、わりと景気のいい曲のほかに、新居昭乃の曲も入っていた。陸前高田にさしかかるころには雨が降り込めてきて、水滴の打ちつけるフロントガラスのむこうに津波で洗い流されてなにもなくなってしまった平坦な町が広がり、右手には垂れこめた雲の下で海が黒くうねっていた。そのときランダム再生にしていたiPodから彼女の「愛の温度」という曲が流れてきた。


これは海で死んだ少女の歌だ。事故かなにかで亡くなり、そのまま海底に沈んだ少女の遺体が目を覚まし、「恋人に会いにいかなくては、でも私、ひどい服を着ているわ」と嘆く。つめたい海の底にいながら、かすかに残っている生の温もりを抱きしめ、その温度をよすがに光る水面を見上げ、生きていたときの記憶や夢をたどる。生者が死者を偲ぶのではなく、死者がこの世を偲ぶ--。


雨にけむる三陸の海を濡れたフロントガラス越しに見ながら、ふいに流れてきたこの歌に、戦慄をおぼえた。なんというイメージだろう。どんな音楽でもそうだけれど、それがすんなりと入ってくる時や場所がある。それまでにもなんども耳にしていたのに、このときは歌われたイメージが、あまりにも生々しくしみこんできて、苦しくなるほどだった。道路脇にクルマを停めて、しばらく車の中から雨に煙る廃墟の街をながめ、それから灰色の海を見やり、そして、その底でいまも眠っているかもしれない少女のことを思った。


もう10年以上前、まだ、Perfumeもいなかったし、日本のポピュラー音楽にまったく関心のなかった自分が、どうして新居昭乃というシンガーソングライターの存在を知ったのか思い出せない。ネットのレビューかなんかで読んだのかもしれない。ともあれ、それまで図書館で近寄ったことのない「日本のポピュラー」と区分されたCD棚から「新居昭乃」という、読み方が謎のアーティストのアルバムを手に取った。ジャケットから女性だとはわかるのだが、写真が小さいうえ、顔のあたりはぼけている。名前は「あらい あきの」と読むのだと知った(「しんきょ しょうの」ではない)。


予備知識もないまま聞き始めたその音楽に、自分でも不思議なほど心を奪われた。透明で伸びのある、しなやかな歌声。独特のコード進行によるどこか不安げでありながら神秘的で美しい旋律。その幻想的な曲調にふさわしく、神経のゆきとどいたていねいな音響処理をほどこされた繊細なアレンジ。しかし、なにより自分がひかれたのは、彼女の音楽からただよってくる、いわば〈遠さ〉ともいうべきイメージだったように思う。それはなんといえばいいのだろう、何百光年も離れた天体から望遠鏡で、この地球の出来事を見つめているかのような、そんな遠さかもしれない。


その望遠鏡をとおして見える映像は、数百年前の地球の姿だ。そこではさまざまな出来事や人びとのいとなみがくりひろげられている。嘆いたり、悲しんだり、微笑んだりする人びとの姿がそこに見えるかもしれない。けれども、どんなに生き生きと見えていても、それらはすべて終わったことなのだ。そんなふうに時の終わりから世界を〈思い出〉として見るような、途方もない遠さの感覚が、新居昭乃の歌を聞いていると全身にしみわたり、しずかな絶望感にひたされる。絶望といっても、けっして暗くはない。それはひんやりとひろがっていくような、深く、遠い、しずけさにみちた絶望である。


もっとも、直接的にそういう内容がうたわれているわけではない。そういうことを直接、言葉や音楽で表現しようすれば、かつてのプログレみたいに芝居がかった、思わせぶりで、わざとらしいものになりかねない。新居昭乃のすごさは、さりげない身近なできごとや感情を歌いながら、それが途方もない闇や遠さへとつながっていってしまうことだ。幼い頃、かくれんぼをしていて、ひとりで草陰のくぼみにしゃがみこんでいるうちに、そこが地上の他の場所からずっと遠く、隔たった異界に感じられてしまうように、日常の時間や空間の中に生じた亀裂の中に、いつのまにかすべりこんでしまうかのような、そんなイメージにつらぬかれている。それから新居昭乃のCDを少しずつ、なんとなくこっそり買いあつめていった。クラシックやジャズ、エレクトロニカや民族音楽はべつとして、自分にとって、Perfumeにさきだって生まれて初めて購入した日本人歌手のCDだった。


新居昭乃がつくる歌は、いまの日本のポピュラーミュージックにあふれている、ポジティブなメッセージや、建設的なスローガンとは無縁だ。また、プロテストソングのような社会に対する直接的な反発や皮肉がうたわれているわけでもない。「絆」とか、「本当の自分」とか、「きみはきみのままでいい」みたいな、無責任な空しいメッセージからも遠い。「愛」とか「夢」という言葉は出てきても、それは絶望の果ての白日夢の中にあらわれた幻像さながらに、はかなく響く。ちょっと聞くと癒し系のように聞こえながらも、じつは人間のおかれている本源的な孤独の浅瀬に追い立てられるような怖さをはらんでいる。死や滅び、果てることなく広がる廃墟、無辺の虚空といったものが世界をつつみこんでいて、そのすきまに蜃気楼のように、この生命ある浅瀬がはかなく美しく浮かんでいるようなイメージが湧いてくる。


そうした感覚は、自分にとって、子どものころ、それとは意識せずに感じていた、あのなんともいえないさびしさや空しさにちかい。遊んでいたり、熱を出して寝こんだりしていたとき、ふいに時間感覚がねじれて、ここにいながら、ここがどこかちがう場所に感じられ、その感覚から逃れられなくなってしまう。そんな遠い感情の記憶が、彼女の歌を聞いていると、深い水の底から泡がたちのぼってくるように意識の表層に浮かんでくることがあった。どこか死の影のつきまとう、断片的な記憶が泡のように意識の水面に浮かび、はじけて消える。彼女の歌を聞きながら、そんな弔いをくりかえした。


むかし好きだった本のこともあれこれ思い出した。「パンジー」を聞くと、リンドグレーンが晩年に書いた「はるかな国の兄弟」が思い出され、「愛の温度」を聞くとシュペルヴィエルの「沖の小娘」が、「バニラ」を聞くと、連想がベタだが、20年以上前に読んだジョルジュ・ランブールの「ヴァニラの木」がリアルに思い出された。「ヴァニラの木」はフランスの風変わりなシュールレアリスム小説だ。人工的に栽培のできない野生のバニラを文明人が手なづけようとするが、ヴァニラはけっして実をつけない。ついにチョコレート王ヴァン・ホーテンがヴァニラに実をつけさせることに成功したとき、人間はとりかえしのつかないものを失ってしまうというような話だった。手もとに本がないのでうろおぼえだが、ひとはなにかを喪失したり、忘却したりすることによって、進歩を獲得してきたという、どこか新居昭乃の世界にもつうじる、かなしく美しい話だった。


日本のポップス界のことを知らない自分には、新居昭乃というひとが、いったいそこでどういう位置にあるのか、まったくわからなかった。CDには解説もついてないし、本人の写真ものっていない。たまにのっていても小さいし、顔が影になっていたりする。プロフィールもわからない。もっとも、うちにたくさんあるECMレーベルのCDも顔写真などついてないので、とくに気にもとめなかった。音楽がきければそれでよかった。新居昭乃の音楽は、自分のなかで特別な存在ではあったけれども、その人物は象徴というか記号のような存在でありつづけた。だから、昨年の冬、エジプトの革命についてぼくが書いたブログの記事に対して、ツイッターでAkino Arai というひとがコメントしているのを見たときも、それがあの新居昭乃だと気づくのにはしばらく時間がかかった。なりすましかなにかじゃないのか。だいたい新居昭乃というひとは、森の湖のほとりの洋館にでも暮らしていて、暖炉の前で編み物でもして、ちがう空気を吸って生きているんじゃないかと思っていた。イメージというのはあてにならない。


それからまもなく、3.11が起きた。すると、その直後から多くのミュージシャンが被災地応援ソングのようなものを発表したり、動画サイトにあげはじめた。そのほとんどは、絆がどうとか、手をつなごうとか、がんばろうとか、きみはひとりじゃないとか、そういったかんじのものばかりだった。それはそれでかまわないけれど、被災者でもない自分がいうのもおこがましいが、そこになんともいえない違和感をおぼえたのも事実だった。だから、それから数日後、新居昭乃が「inori」と題した曲をYouTubeにあげたときも、じつはすこし不安だった。万が一それが、きみはひとりじゃない、手をつなごうみたいな歌だったらどうしようと思ったからだ。


けれども、そうではなかった。ピアノとギターの伴奏だけでうたわれたその短い歌は、耳にはやさしく、美しい調べながらも、深い絶望や恐怖、かなしみや苦しみなどを内にはらんだ、文字どおり、痛々しい祈りにみちた歌だった。それは新居昭乃にしかつくれない歌だった。歌詞には意味はないのだろうと思っていたのだが、あとでそれがヘブライ語の「詩編」の一節をローマ字読みでうたったものであると知った。ただ、いずれにしても、それは意味のある言葉というより、織り込まれたさまざまな思いや感情が声としてほとばしったもののように聞こえた。






今年(2012)の春に「Red Planet」「Blue Planet」という2枚の新しいアルバムが出た。中には映画「西の魔女が死んだ」の主題歌として手嶌葵に提供した賛歌のようにシンプルで美しい曲「虹」のセルフカバーや、ライブで歌われてきた「HAYABUSA」などもおさめられている。これまでの作品より明るめで、集大成的な意味もかんじられる作品なので、これから新居昭乃を聞こうという人にはおすすめである。個人的には Red Planet に収められている「Our Children's Rain Song」が、あまりにも自分の好きなタイプの曲だった。それは雨の歌だ。新居昭乃には雨の歌がいくつかあるが、それは実りをもたらす豊饒のしるしというより、あらゆるいとなみを洗い流し、時に終わりをもたらす残酷な恩寵としてあらわれる。1年前の初夏、三陸の海にふりこめていた、あのしずかな灰色の雨の記憶がかさなる。淡々とした、かなしくも、力強い調べ。聞くたびに、さびしくなり、ますます絶望の浅瀬へと追いやられていく。ああ、きょうも雨だなあ。




次回は1年後なんてことはないように迅速に。。。すくなくとも1ヵ月以内くらいに。

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