2008年12月 / 11月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫04月

--.--.-- (--)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--:--  |  スポンサー広告  |  EDIT  |  Top↑

2008.12.30 (Tue)

Popol Vuh「Hosianna Mantra」

この前本屋にいったら、capsuleの中田ヤスタカが表紙を飾っている雑誌が目に入った。『MARQUEE』という雑誌だった。MARQUEE? それは記憶にある雑誌だった。1980年代前半だから、いまから25年(!!!)ほど前、ぼくはこの雑誌の熱心な愛読者だった。しかし、当時のMARQUEE(その前身は『MARQUEE MOON』)は、こんなメジャーな音楽を扱うものではなかった。それはユーロピアン・プログレをメインとしたマニアックな超マイナーな音楽専門誌だった。

ほんとうに、あの『マーキー』なのか? 調べてみると、いろいろ中断はあり、中身もすっかり様変わりしたが、たしかにあの『マーキー』の末裔らしいことがわかった。B5版月刊誌だった『マーキー・ムーン』がA4版の不定期刊の『マーキー』になり、いつしか見なくなってしまったのだが、こんな形で復活していたとは。超マイナーな世界を扱っていた雑誌なのに、ずいぶん変わったものだ。きっと、いろいろあったのだろう。

あの頃、先鋭的なロック音楽雑誌の筆頭は渋谷陽一編集の『ロッキング・オン』だったが、ロッキング・オンが光を当てないマイナー・プログレを扱う雑誌として知られていたのが北村昌士編集の『フールズ・メイト』だった。その『フールズ・メイト』よりも、さらに耽美的で、独自の世界を追求していたのが山崎尚洋編集の『マーキー・ムーン』(のちの『マーキー』)だった。『フールズ・メイト』と『マーキー・ムーン』は両方とも買っていたが、好きだったのは『マーキー・ムーン』だった。

左が「マーキー・ムーン」、右が「フールズ・メイト」
左が「マーキー・ムーン」(1983)、右が「フールズ・メイト」(1980)

『マーキー・ムーン』は不思議な雑誌だった。初めはマイナーなヨーロピアン・プログレを扱っていたのだが、編集長の趣向もあって、メシアンのような現代音楽、ヨーロピアン・トラッドの世界、さらに晩年のシューマンなど、じつに幅広い範囲の音楽を取り上げるようになった。記事にはオカルティズムをめぐる難解な評論があったり、現代音楽家の松平頼暁さんの連載があったり、ルネサンスの音楽家ギョーム・デュファイについての論考やら、ガムラン音楽講義などがあったり、おまけとしてソノシートまでついていたりして、とにかくカバー範囲が広かった。「香りの音楽」と題して、イーノのアンビエントとはまたちがう美意識に貫かれたコンセプトを提示していたりもした。

ぼくはこの雑誌で、ユーロピアン・プログレのみならず中世のポリフォニー音楽や、スーフィーの音楽や、さらに西洋文化の背景に流れる隠秘学の伝統など、じつに多くを学んだ。教会音楽からロック、現代音楽をつらぬく有機的なつながりのようなものを意識するようになったのも、この雑誌のおかげだった。そして、この雑誌のレビューで紹介されているレコード(それは大きなレコード店ではまず置いていなかった)を求めて、明大前のモダーン・ミュージックとか、恵比寿のパテ・レコードなどに足繁く通った。ときに、中古なのに1枚8000円もする「幻の名盤」というのを、さんざん迷ったあげく買っては、自己満足にひたったり、逆に、ありゃこんなもんか、やられたーとほぞをかんだりする、というのをくりかえした。

それでも「マーキー・ムーン」編集長の山崎尚洋さんのレビューは、ぼくにとってもっとも信頼のおけるものだった。それは繊細な美意識と熱い思いにあふれた、知的でありながら昂揚感をさそう文章だった。たとえば、彼がとくに推していたドイツの「ポポル・ヴフ」(Popol Vuh)というグループの「Hosianna Mantra」という作品についてのレビューは、こんなかんじだ。

「……アカデミズムやヒエラルヒーに一切とらわれることのない教会音楽があるとすれば、それがポポル・ヴフの音楽であるといえる。あらゆる現実とのしがらみから手を切り、精神の深みからわき出る情感を音に表現するメソードは、真に自由であり、歴史、現実、カテゴリーといったものから解き放たれた神秘の世界でもある……」(MARQUEE MOON 013より)

Hosianna Mantra
Popol Vuh「Hosianna Mantra」

かっこいい! これですっかりやられて、ぼくもポポル・ヴフのレコードを探し求めた。それはレビューにたがわず、まさに当時の自分が求めていた音楽だった。マヤの聖典の名を冠したこのグループはロックというには程遠い、いまでいうアンビエントやミニマルにちかい音楽をつくっていた人たちなのだが、そのころはそうしたカテゴリーもそれほど普及していなかったため、まとめてひとからげにドイツのプログレということになっていた。しかし、ピアノとソプラノとギターというシンプルな編成からつくられるその音楽は、緊張を内に秘めた耽美的な静寂と土俗的な呪術性をはらんだ、それまで耳にしたことのないサウンドだった。

『マーキー・ムーン』を通じて、ポポル・ヴフの音楽をドイツの映画監督のヴェルナー・ヘルツォークがたびたび使っていることを知った。『ノスフェラトゥ』も『アギーレ』もそうだった。なんだかすごい秘密を発見した思いで、ぼくはヘルツォークの映画の上映会を探しては足を運んだ。


ちょうどその頃、ヘルツォークの『フィッツカラルド』という作品が封切られた。これはアマゾンの密林の中にオペラハウスをつくろうとした男の狂気を描いたものだが、その音楽を手がけていたのもポポル・ヴフだった。大地から湧き起こるような神秘的な音楽は、ヘルツォークの描く深い密林の映像におどろくほど合っていた。これがそのテーマ音楽だ。もっとも、動画の映像は雰囲気は似ているが映画のとはちがう。



フィツカラルド [DVD]
フィツカラルド [DVD]

また、ポポル・ヴフのリーダーであるフローリアン・フリッケが、同じくヘルツォークの名作『カスパーハウザーの謎』に盲目のピアニストの役で出演しているのを見たときは、だれも知らない秘密をしったようなひそかな快感に酔った。だれも羨ましがらないだろうけど。

カスパー・ハウザーの謎 [DVD]
カスパー・ハウザーの謎 [DVD]

とはいえ、ヘルツォークの多くの映画の主演をつとめたクラウス・キンスキーは1991年に亡くなり、フローリアン・フリッケも2001年に亡くなり、ポポル・ヴフの活動は終わった。ヘルツォークもキンスキー亡き後は、なんとなくぱっとしない。『フールズ・メイト』編集長だった北村昌士さんも数年前に亡くなった。『フールズ・メイト』はいまも健在だそうだが、流行りのJ-Popを扱う、以前とは似ても似つかないものになってしまったというし、『マーキー』もすっかり変わってしまった。

ポポル・ヴフの音楽にあれほどひかれていたのは、そこにあふれる官能的な宗教性や荘厳な静寂のためだったのだろう。しかし、フローリアン・フリッケが亡くなり、彼らのあとを継ぐようなグループもなくなったいま、その音楽を聞いて感じるのは、ひたすらな孤独だ。山崎尚洋さんが書いたように、それは「アカデミズムやヒエラルヒーに一切とらわれることのない教会音楽」であり、「あらゆる現実とのしがらみから手を切った」音楽かもしれないし、その意味ではたしかに自由だ。しかし、その自由はどうしようもなく孤独な自由だ。

80年代の初め頃、ヘルツォークがヴィム・ヴェンダースらといっしょに来日したときに行われたシンポジウムのあと、ぼくはヘルツォークに直接、訊ねたことがある。「どうしてあなたはポポル・ヴフの音楽を使うのですか」と。ヘルツォークは「私は彼らの音楽だけを使っているわけではありません。ワーグナーやモーツァルトも使います。けれども、私の映画にはフローリアン・フリッケの音楽は欠かせないのです。彼の音楽以上のものが私には考えられないのです」と答えた。それは答えになっていないような答えだったけれど、いまになってみると、ヘルツォークがいっていたことは、なんとなくわかる気もする。

ヘルツォークがポポル・ヴフの音楽を使った映画は、いずれもだれにも理解されないような孤独な人物をあつかったものばかりだ。アマゾンにオペラハウスをつくる夢にとりつかれたフィッツカラルドも、密林に妄想の王国を夢見たアギーレも、18世紀の奇人カスパーハウザーも、クラウス・キンスキー扮する孤独な吸血鬼ノスフェラトゥも、『ガラスの心』の予言者も、自由だけれど、だれの共感も得られることのない水のような哀しみを背負った主人公たちだった。それはとりもなおさず、ポポル・ヴフの音楽そのものだった。自由であるがゆえに、群れることも、形をとることもない、その孤独なもの哀しさが、いかに彼らの音楽にはあふれていることか。


これはヘルツォークの「アギーレ」の冒頭シーン。音楽はポポル・ヴフ。

プログレバンドの多くが、パンクやニューウェイブなどの流行のなかで音楽性を変えていったが、ポポル・ヴフは変わらなかった。フローリアン・フリッケは音楽の世界にシンセサイザーが導入される以前にシンセを使い、その可能性が注目されはじめた1970年代の初め頃には、それに見切りをつけて巨大なモーグのシンセをクラウス・シュルツに売り払い、完全なアコースティックに回帰していた。時代性の中で、彼らの音楽を位置づけようとするのはほとんど意味がない。それだけに音楽メディアにとりあげられることもほとんどないまま、フローリアン・フリッケの死とともにポポル・ヴフは忘却されかけている。そういうことだったのだろうかーーとヘルツォークのいった言葉をぼくはいまさらながらに思い出している。

アギーレ・神の怒り [DVD]
アギーレ・神の怒り [DVD]



スポンサーサイト

テーマ : 本日のCD・レコード ジャンル : 音楽

02:15  |  progressive rock  |  TB(0)  |  CM(6)  |  EDIT  |  Top↑

2008.12.13 (Sat)

Chick Corea & Hiromi 「Duet」

Perfume、capsuleと今年出た作品がつづいているが、今回も2008年発売のもの。上原ひろみとチック・コリアの「デュエット」である。

デュエット(初回限定盤)(DVD付)


デュエットといっても、このジャケットの二人が「銀座の恋の物語」みたいに歌っているわけではない。この二人はジャズ・ピアニストであり、ピアノで即興のデュエットを演奏しているのである、と書きながら思うのだが、これを読んでいる人の中にはジャズなんてまったく聞かないという人もいるかもしれないし、逆にいまさら上原ひろみだなんてという人もいるかもしれないので、どういうスタンスで書けばいいのか少し悩むところもあるのだが、とりあえず初めて名前を聞いた人でも、なんとなくついてこられるくらいの距離感を保とうとは思っています。というのも、ジャズについて使われるエクリチュールというのは、最近はそうでもないのだが、かつては本当に排他的だったからだ。

たとえば、こんなの。
「フリー・ジャズの問題は、フリー・ジャズがジャズという音楽的階級性とジャンル的限定性の中でとことんまで地獄を味わうことにこそ有効性があり、そこにジャズをアウフヘーベンする可能性があるはずだからなのだ(以下略)」

あるいはこんなのとか。
「ソロは二重の意味で本来的に危機的な形態である。それは状況論的なレヴェルと存在論的なレヴェルにおいて言えるだろう。状況論的にいうならばソロの出現は失われつつあるか、不明確になった演奏を支える共同性と文化へのまさぐりとして考えられる(以下略)」

これはいまは亡きジャズ評論家、間章氏の文章の一節で1970年代に書かれたもの。間章氏は一部の人たちの間ではカリスマ的な評論家とされていて、その文章は難解なうえマルクスからスーザン・ソンタグからミシェル・フーコーまでばりばり引用されている。でも、これがわからないとジャズがわからないのかと思って、ぼくもアルバート・アイラーとか、セシル・テイラーとか、いま聞くとかなりしんどいフリー・ジャズを聞きながら、彼の文章を読んだものだけど、じつをいうとちんぷんかんぷんだった。ただ、ちんぷんかんぷんだといえないので、人には、「やっぱり間章を読まなきゃジャズはわからないよ」とかうそぶいていた。でも、いまだからいうけど、さっぱりわかりませんでした。

もちろん当時のジャズ評論がみなこんな難解さにあふれていたわけではないが、どうしてもかつて、ジャズを聞くという行為には追いつめられた暗い影のようなイメージがつきまとっていた。実際、ジャズ・ミュージシャンといえばロック・ミュージシャン以上に生活が荒れていて、ドラッグ中毒で命を失うはめになった有名演奏家はいくらでもいる。逆に、健全な市民生活を送っていたり、酒もタバコもドラッグもやらないミュージシャンの演奏なんてだめだ、という見方もあったように思う。もっとも、これも当時の時代環境からすると、あながちまちがいではなかったとも思う。既成のシステムや考え方への反撥というのは、ロック同様ジャズを進化させる大きなファクターだったし、そこで多くのミュージシャンがしのぎを削っていたのはたしかだ。

それにくらべると、いまのジャズは健全になった。それも当然で、新しい音楽をつくるためのブレイクスルーの方向性が、80年代以降、相当変わってしまったからだ。もはや、酒やタバコやドラッグをやらなくても、生活を破綻させなくても、音楽に向き合うことが可能になった。でも、それ以前のジャズ好きは、どこかでやはり最近の健全なジャズに違和感を抱いている。だから、上原ひろみがしょっちゅうテレビに出て、あの夏の太陽のような笑顔で、まるでマラソンの高橋尚子のように前向きな発言をくりかえしていると、どこか納得できないものを感じるのだろう。その魔術的までの流麗なテクニックは認めても、「これはジャズではない」といわずにはいられないのだろう。その気持ちはわからなくもない。実際、最初に彼女のReturn Of Kung-Fu World Championを聞いたときはプログレだと思った。XYZという曲なんてキース・エマーソンが書きそうな雰囲気である。

上原ひろみは明るい。上原ひろみというだけで大きな口を開けて笑う彼女の、真夏の太陽のような顔が浮かんでくる。でも、それはぼくが彼女の演奏を映像をとおして知ったからだろう。もし、映像を介さずに、その演奏だけを聞きつづけていたならば、たぶんかなりちがった印象を受けていたかもしれない。たしかに上原ひろみの弾くピアノはパワーにあふれているし、元気だし、ぐいぐいとひっぱっていくようなドライブ感にあふれているし、テクニックはスーパーとしかいいようがない。ただ、そこには映像をとおして見たときには忘れてしまいがちな暗さというか、不条理性というか、ひねくれた狂気がたしかに伝わってくる。しかも、その暗い狂気は相当に深い。それは昔のミュージシャンのような社会や哲学にからんだものではなく、もっと音楽的にピュアな狂気とでもいうのだろうか。けれども、映像を通してみると、彼女のめっぽう元気のいいパフォーマンスや、インタビューに答えるときの気恥ずかしくなってしまうほど前向きな受け答えのせいか、そうした影があまり感じられなくなってしまう。

それはさておき、Duetである。これはチック・コリアと上原ひろみが二台のピアノでほとんど打ち合わせなしにデュエットした作品で、CDに加えて2曲分のライブ映像を修めたDVDがついている。DVDにはチックの代表作の一つである「スペイン」が収められているが、同じものがCDにも入っている。で、CDで聞くのとDVDを見ながら聞くのとでは、かなり印象がちがってしまう。むろん映像付きの方が圧倒的に楽しい。これは当然なのかもしれないが、逆にいうと彼女の視覚的な演奏シーンが圧倒的すぎて、耳から入った音楽からの想像力による刺激がそれに及ばないというのは聞いていて、少し残念でもある。それはぼくがライブとかコンサートというのに、あまり興味がなく、もっぱら音をとおして想像力を刺激されるほうが好きなせいもあるのだけれど、上原ひろみの場合、やっぱり演奏しているところが見たくなるのだ。でも、そうすると音楽を聞いているというより演奏を音といっしょに「見ている」ようなかんじで、なんとなく悩ましい。そんな悩ましさをおぼえつつも、上原ひろみが好きなので、やっぱり映像を集めては見まくってしまうのである。

「スペイン」のデュエット演奏はいくつかバージョンがある。下のはDVDのではなく、テレビ出演したときのバージョン。そのかけ合いはほとんどエロチックといっていいほどになまめかしい。チック・コリアがスペースをつくったところに上原ひろみが自在に音をちりばめていったり、視線をからめあいつつ、互いに出方をうかがいつつ、新しいフレーズやリズムを刻みだしていったりするところなど、おい、そんなことしていいのか、セクハラではないかと思わせるほどにいやらしく、すてきだ。これは耳で聞いているだけではわからない。





ちなみに、あるインタビューで、彼女が影響を受けた音楽として挙げていたのが
グレン・グールドのゴールドベルク変奏曲(晩年のやつ)
エロール・ガーナー「CONCERT BY THE SEA」
スクエアプッシャー「Hard Normal Daddy」
フランク・ザッパ「Waka/Jawaka」
ジェフ・ベック「Wired」
スティーブ・ライヒ「Six Marimbas」
Oval 「Ovalprocess」
Four Tet「Rounds」
などだ。

いわゆるジャズの名盤が、彼女が初めて聞いたジャズであるエロール・ガーナーしかないというのが面白い。もちろんあえて挙げなかっただけだろうけれど、それ以外のセレクションもバラエティに富んでいる。ジェフ・ベックやザッパ、スクエアプッシャーはなんとなくわかるが、ミニマル系のオーバルやスティーブ・ライヒが好きとは意外だった。まあ、聞いている音楽がなにかなんて自分のやっている音楽とはダイレクトに結びつくものではないのだが、ちょっと面白い。Four Tetというのは知らなかったが、オーバルに近いミニマム・テクノのようだ。

動画サイトから好きな演奏をいくつか。最初はXYZ。緊張感にあふれていて手弾きのスクエアプッシャーという感もなくもない。髪の毛、爆発してます。左手のピアノのフレーズ、EL&Pのタルカスっぽい。





これは彼女が好きだというブルース・リーやジャッキー・チェンへのオマージュとして書かれたというReturn Of Kung-Fu World Champion。後半ののびやかなシンセソロがいい。






これは春にNHKに出演したときに弾いた「さくら」をテーマにした即興ソロ。こういうリリカルな演奏もとてもいい。



それでも少しだけ気になるのだ。もし間章氏が生きていて、彼女の演奏を聴いたとしたら果たしてなんていっただろうかと。

テーマ : おすすめ音楽♪ ジャンル : 音楽

02:32  |  jazz  |  TB(0)  |  CM(1)  |  EDIT  |  Top↑

2008.12.02 (Tue)

capsule「MORE! MORE! MORE! 」

Perfumeのつぎはcapsule(カプセル)である。capsuleはPerfumeの作詞・作曲・プロデュースを手がける中田ヤスタカが、ボーカルのこしじまとしこ(通称「こしこ」)と組んでいるユニットだ。Perfumeが好きになって、そこからcapsuleに行くというのは、いってみれば冬のソナタから韓流のほかのドラマに手を伸ばすというパターンに近い。いわば王道である。いや、capsuleのほうがオリジナルだから、ある意味、「ぱちんこ冬のソナタ」に初めに出会い、その後、本家であるドラマ「冬のソナタ」を知るという本末転倒なパターンなのかもしれない。

capsuleはいわゆるクラブ(「ひよこクラブ」のクラブとは発音がちがう)を中心に長年活躍している人気ユニットである。以前からクラブに出入りしているような人たちの間では、すでにコアな人気を誇っていたらしい。昔からのcapsuleファンたちは、「Perfumeからcapsuleに来た連中なんて新参者、所詮外様よ」と思っているかどうかはわからないが、Perfume人気でcapsuleの新しいファンがどっと増えたのはたしかだろう。

ぼくの場合は、以前渋谷のクラブに行ったときのヒップホップな経験を書いたこともあるので、譜代とまでは行かないまでも薩長にくらべれば、外様であってもやや格上といっても、さしつかえないかもしれない。

で、このcapsuleなのだがカッコいいのだ。初期の頃はレトロでかわいげな雰囲気なのだが、最近のものはといえばPerfumeの甘さを取り去ってジンとベルモットを加えたドライマティーニのようなサウンドなのである。クラブミュージックというか、エレクトロニカと呼ばれるシンセとコンピューターでつくった音楽はわりと好きだが、capsuleはその中でもひときわドライでカッコいい。語彙が貧しくて情けないがカッコいいとしかいいようがない。中田ヤスタカもカッコいいし、こしじまとしこはレトロでコケティッシュな雰囲気がいい。越島稔子という重たげな本名もいい。こんなかんじのユニットである(アルバムはFLASH BACK)。うーん、カッコいい。

FLASH BACK

カッコいいとはどういうことか。それはおそらく時代の流れをとらえているというだけではだめで、どこかそこに挑発するようなずれや毒があることが必要なのだろう。たんに心地よいだけではなく、どこか苛立たせるような激しさとか、突き放すような冷酷さとか、そういうものが気持ちよさの背後にあることが条件なのだろう。capsuleの音楽はそのあたりのバランスがじつにいい。ウイスキーでもブランデーでもワインでも焼酎のホッピー割りでもなく、カクテル、それもドライでシュガーレスなカクテルなのだ。

Perfumeからcapsuleに手を出してSugarless GiRLFLASH BACKFRUITS CLiPPERcapsule rmxといった最近のアルバムをのきなみ聞きまくり、PerfumeにくわえてまたiPod、カーオーディオもcapsule三昧になって、家でも食器を洗いながらcapsuleだし、洗濯干しながらcapsuleであり、近所のスーパーに自転車で大根を買い物に行くときもcapsuleだ。大根とネギをママチャリの前カゴに入れて走っていても、そんな自分がおしゃれだと勘違いさせてしまうのがcapsuleの怖さである。もちろん食事のときもcapsuleで、さすがにそのときは家人から「食事向きの曲ではない!」とクレームがつくが、そんなのはシカトだ。

で、つい先日新しいのが出た。これはシャンプーのCMでもつかわれている「More More More」という曲がアルバムタイトルになっている作品である。

MORE! MORE! MORE!(初回生産限定)(DVD付)


この中にJumperという曲が入っていて、これのPVが動画サイトで見られる。これがまたカッコいい! PVとしてはシンプルだし、世の中にはほかにもっと完成度の高いPVも存在するし、冷静に見たらいろいろ批判的なこともいえるのだが、いまはかっこよさしか見えない。このPVも中田ヤスタカの作品らしい。




PVの中で、ゲゲゲの鬼太郎に出てくる猫娘みたいな格好をした女の子たちがグルジェフダンスみたいなカクカクしたダンスをするところもいい。重低音のブレイクのところで、中田ヤスタカが両手を広げて千手観音みたいになるところも、ちょっと笑っちゃうんだけど、そのズレたかんじがいい。

でも、いちばん好きなのはボーカルのこしじまとしこが頭を最初は静かに揺らしはじめ、それから徐々に激しくなっていくところだ。おかっぱの金髪が左右に激しく乱れて、ひるがえった髪に光がきらめくところなど美しくてため息が出る。Perfumeでもそうだったが、女の子になって金髪に染めた髪を振り乱したい。ほかの曲のPVやライブの動画などを見てもそうなのだが、Perfumeとは対照的に、こしじまとしこは凝ったダンスはしない。シンプルに体を揺らしたり、飛び跳ねたりするだけの素人くさいダンスなのだが、そのシンプルな体の揺らしが、じつにぞくぞくかっこよく見える。彼女がしている片目に黒いバッテンのついた白いゴーグルもほしい。

もっとも、アルバムとしては、こんどのMore More Moreもいいのだが、FLASH BACKのほうが全体としての統一感の高さが感じられる。Electric light Moon light なんて都会の夜のかっこよさが匂い立ってくる。また、capsule rmxの中のSugarless GiRLのリミックスバージョンもめくるめくような乾いた疾走感がいい。とくに、あ~あ~あ~あ~あ~あ~というリフレインのところがぞくぞくする(下の動画参照)。



capsule rmx


capsuleを聞くようになってから、またクラブというところに行ってみたくなったのだが、ネットでcapsuleの出演予定のクラブの情報など見ると、始まりが夜の11時である。なんでそんなに遅く始まるのか。うちへ帰れなくなってしまうではないか。でも、きっとそういうことを考えてしまうのがダサいんだろうな。クラブの譜代たちは朝までいるのがあたりまえなんだろうが、やや外様としては家も遠いことだし終電までには帰りたい。となるといられる時間がかぎられてしまう。

あと気になるのは、クラブの独特な雰囲気だ、前回はチーマーに袋だたきにはされなかったものの、はて、中にいる間なにをしたらいいものなのか身の置き所がなかった。用語もよくわからなかった。ドラッグクイーンという女の人たちが出てきたのだが、あれはなんだったのか。ドラッグっていけないものなんじゃないか。彼女たちは棒にからみつくようなダンスをしていたが、あれは最終的にどうなってしまうのか。いけないことにはならないのか。おひねりとかあげないといけないのか。そういうことは終電前に帰ってしまった身には永遠の謎である。

あれから数年たって、また新しいクラブ用語なんかもできているだろうし、それがわからないと中に入れてもらえないということはないのか。そんなわけで、できれば、だれか粗相のないようクラブの作法を教えてくれる人といっしょに行ってみたいのだが。でも、終電があるからな。よい子とよいおやじのための夜7時くらいからやるクラブってないんでしょうか。

テーマ : おすすめ音楽♪ ジャンル : 音楽

10:41  |  Japan Pops  |  TB(0)  |  CM(1)  |  EDIT  |  Top↑
 | BLOGTOP | 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。