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2012.06.09 (Sat)

新居昭乃「Our Children's Rain Song」

また1年近く空いてしまった、と1年前のエントリーでも書いている。年刊化は避けたいといっていたのに、3年で3回更新では言い訳のしようもない。。。ところで1年前というと、東日本大震災のあとの非日常的な空気がまだ日本中を覆っていた時期で、ちょうどいまくらい(昨年の6月上旬)には津波で家を流された東北の友人のところへ物を運んだりしていた。


車のiPodにはPerfumeとかLady Gagaとか、わりと景気のいい曲のほかに、新居昭乃の曲も入っていた。陸前高田にさしかかるころには雨が降り込めてきて、水滴の打ちつけるフロントガラスのむこうに津波で洗い流されてなにもなくなってしまった平坦な町が広がり、右手には垂れこめた雲の下で海が黒くうねっていた。そのときランダム再生にしていたiPodから彼女の「愛の温度」という曲が流れてきた。


これは海で死んだ少女の歌だ。事故かなにかで亡くなり、そのまま海底に沈んだ少女の遺体が目を覚まし、「恋人に会いにいかなくては、でも私、ひどい服を着ているわ」と嘆く。つめたい海の底にいながら、かすかに残っている生の温もりを抱きしめ、その温度をよすがに光る水面を見上げ、生きていたときの記憶や夢をたどる。生者が死者を偲ぶのではなく、死者がこの世を偲ぶ--。


雨にけむる三陸の海を濡れたフロントガラス越しに見ながら、ふいに流れてきたこの歌に、戦慄をおぼえた。なんというイメージだろう。どんな音楽でもそうだけれど、それがすんなりと入ってくる時や場所がある。それまでにもなんども耳にしていたのに、このときは歌われたイメージが、あまりにも生々しくしみこんできて、苦しくなるほどだった。道路脇にクルマを停めて、しばらく車の中から雨に煙る廃墟の街をながめ、それから灰色の海を見やり、そして、その底でいまも眠っているかもしれない少女のことを思った。


もう10年以上前、まだ、Perfumeもいなかったし、日本のポピュラー音楽にまったく関心のなかった自分が、どうして新居昭乃というシンガーソングライターの存在を知ったのか思い出せない。ネットのレビューかなんかで読んだのかもしれない。ともあれ、それまで図書館で近寄ったことのない「日本のポピュラー」と区分されたCD棚から「新居昭乃」という、読み方が謎のアーティストのアルバムを手に取った。ジャケットから女性だとはわかるのだが、写真が小さいうえ、顔のあたりはぼけている。名前は「あらい あきの」と読むのだと知った(「しんきょ しょうの」ではない)。


予備知識もないまま聞き始めたその音楽に、自分でも不思議なほど心を奪われた。透明で伸びのある、しなやかな歌声。独特のコード進行によるどこか不安げでありながら神秘的で美しい旋律。その幻想的な曲調にふさわしく、神経のゆきとどいたていねいな音響処理をほどこされた繊細なアレンジ。しかし、なにより自分がひかれたのは、彼女の音楽からただよってくる、いわば〈遠さ〉ともいうべきイメージだったように思う。それはなんといえばいいのだろう、何百光年も離れた天体から望遠鏡で、この地球の出来事を見つめているかのような、そんな遠さかもしれない。


その望遠鏡をとおして見える映像は、数百年前の地球の姿だ。そこではさまざまな出来事や人びとのいとなみがくりひろげられている。嘆いたり、悲しんだり、微笑んだりする人びとの姿がそこに見えるかもしれない。けれども、どんなに生き生きと見えていても、それらはすべて終わったことなのだ。そんなふうに時の終わりから世界を〈思い出〉として見るような、途方もない遠さの感覚が、新居昭乃の歌を聞いていると全身にしみわたり、しずかな絶望感にひたされる。絶望といっても、けっして暗くはない。それはひんやりとひろがっていくような、深く、遠い、しずけさにみちた絶望である。


もっとも、直接的にそういう内容がうたわれているわけではない。そういうことを直接、言葉や音楽で表現しようすれば、かつてのプログレみたいに芝居がかった、思わせぶりで、わざとらしいものになりかねない。新居昭乃のすごさは、さりげない身近なできごとや感情を歌いながら、それが途方もない闇や遠さへとつながっていってしまうことだ。幼い頃、かくれんぼをしていて、ひとりで草陰のくぼみにしゃがみこんでいるうちに、そこが地上の他の場所からずっと遠く、隔たった異界に感じられてしまうように、日常の時間や空間の中に生じた亀裂の中に、いつのまにかすべりこんでしまうかのような、そんなイメージにつらぬかれている。それから新居昭乃のCDを少しずつ、なんとなくこっそり買いあつめていった。クラシックやジャズ、エレクトロニカや民族音楽はべつとして、自分にとって、Perfumeにさきだって生まれて初めて購入した日本人歌手のCDだった。


新居昭乃がつくる歌は、いまの日本のポピュラーミュージックにあふれている、ポジティブなメッセージや、建設的なスローガンとは無縁だ。また、プロテストソングのような社会に対する直接的な反発や皮肉がうたわれているわけでもない。「絆」とか、「本当の自分」とか、「きみはきみのままでいい」みたいな、無責任な空しいメッセージからも遠い。「愛」とか「夢」という言葉は出てきても、それは絶望の果ての白日夢の中にあらわれた幻像さながらに、はかなく響く。ちょっと聞くと癒し系のように聞こえながらも、じつは人間のおかれている本源的な孤独の浅瀬に追い立てられるような怖さをはらんでいる。死や滅び、果てることなく広がる廃墟、無辺の虚空といったものが世界をつつみこんでいて、そのすきまに蜃気楼のように、この生命ある浅瀬がはかなく美しく浮かんでいるようなイメージが湧いてくる。


そうした感覚は、自分にとって、子どものころ、それとは意識せずに感じていた、あのなんともいえないさびしさや空しさにちかい。遊んでいたり、熱を出して寝こんだりしていたとき、ふいに時間感覚がねじれて、ここにいながら、ここがどこかちがう場所に感じられ、その感覚から逃れられなくなってしまう。そんな遠い感情の記憶が、彼女の歌を聞いていると、深い水の底から泡がたちのぼってくるように意識の表層に浮かんでくることがあった。どこか死の影のつきまとう、断片的な記憶が泡のように意識の水面に浮かび、はじけて消える。彼女の歌を聞きながら、そんな弔いをくりかえした。


むかし好きだった本のこともあれこれ思い出した。「パンジー」を聞くと、リンドグレーンが晩年に書いた「はるかな国の兄弟」が思い出され、「愛の温度」を聞くとシュペルヴィエルの「沖の小娘」が、「バニラ」を聞くと、連想がベタだが、20年以上前に読んだジョルジュ・ランブールの「ヴァニラの木」がリアルに思い出された。「ヴァニラの木」はフランスの風変わりなシュールレアリスム小説だ。人工的に栽培のできない野生のバニラを文明人が手なづけようとするが、ヴァニラはけっして実をつけない。ついにチョコレート王ヴァン・ホーテンがヴァニラに実をつけさせることに成功したとき、人間はとりかえしのつかないものを失ってしまうというような話だった。手もとに本がないのでうろおぼえだが、ひとはなにかを喪失したり、忘却したりすることによって、進歩を獲得してきたという、どこか新居昭乃の世界にもつうじる、かなしく美しい話だった。


日本のポップス界のことを知らない自分には、新居昭乃というひとが、いったいそこでどういう位置にあるのか、まったくわからなかった。CDには解説もついてないし、本人の写真ものっていない。たまにのっていても小さいし、顔が影になっていたりする。プロフィールもわからない。もっとも、うちにたくさんあるECMレーベルのCDも顔写真などついてないので、とくに気にもとめなかった。音楽がきければそれでよかった。新居昭乃の音楽は、自分のなかで特別な存在ではあったけれども、その人物は象徴というか記号のような存在でありつづけた。だから、昨年の冬、エジプトの革命についてぼくが書いたブログの記事に対して、ツイッターでAkino Arai というひとがコメントしているのを見たときも、それがあの新居昭乃だと気づくのにはしばらく時間がかかった。なりすましかなにかじゃないのか。だいたい新居昭乃というひとは、森の湖のほとりの洋館にでも暮らしていて、暖炉の前で編み物でもして、ちがう空気を吸って生きているんじゃないかと思っていた。イメージというのはあてにならない。


それからまもなく、3.11が起きた。すると、その直後から多くのミュージシャンが被災地応援ソングのようなものを発表したり、動画サイトにあげはじめた。そのほとんどは、絆がどうとか、手をつなごうとか、がんばろうとか、きみはひとりじゃないとか、そういったかんじのものばかりだった。それはそれでかまわないけれど、被災者でもない自分がいうのもおこがましいが、そこになんともいえない違和感をおぼえたのも事実だった。だから、それから数日後、新居昭乃が「inori」と題した曲をYouTubeにあげたときも、じつはすこし不安だった。万が一それが、きみはひとりじゃない、手をつなごうみたいな歌だったらどうしようと思ったからだ。


けれども、そうではなかった。ピアノとギターの伴奏だけでうたわれたその短い歌は、耳にはやさしく、美しい調べながらも、深い絶望や恐怖、かなしみや苦しみなどを内にはらんだ、文字どおり、痛々しい祈りにみちた歌だった。それは新居昭乃にしかつくれない歌だった。歌詞には意味はないのだろうと思っていたのだが、あとでそれがヘブライ語の「詩編」の一節をローマ字読みでうたったものであると知った。ただ、いずれにしても、それは意味のある言葉というより、織り込まれたさまざまな思いや感情が声としてほとばしったもののように聞こえた。






今年(2012)の春に「Red Planet」「Blue Planet」という2枚の新しいアルバムが出た。中には映画「西の魔女が死んだ」の主題歌として手嶌葵に提供した賛歌のようにシンプルで美しい曲「虹」のセルフカバーや、ライブで歌われてきた「HAYABUSA」などもおさめられている。これまでの作品より明るめで、集大成的な意味もかんじられる作品なので、これから新居昭乃を聞こうという人にはおすすめである。個人的には Red Planet に収められている「Our Children's Rain Song」が、あまりにも自分の好きなタイプの曲だった。それは雨の歌だ。新居昭乃には雨の歌がいくつかあるが、それは実りをもたらす豊饒のしるしというより、あらゆるいとなみを洗い流し、時に終わりをもたらす残酷な恩寵としてあらわれる。1年前の初夏、三陸の海にふりこめていた、あのしずかな灰色の雨の記憶がかさなる。淡々とした、かなしくも、力強い調べ。聞くたびに、さびしくなり、ますます絶望の浅瀬へと追いやられていく。ああ、きょうも雨だなあ。




次回は1年後なんてことはないように迅速に。。。すくなくとも1ヵ月以内くらいに。

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2011.06.03 (Fri)

Lady Gaga「Judas」

また1年近く間が空いてしまった。しかも、またLady Gagaである。Lady GagaやPerfume ばかり聞いているわけではないのだが、Lady GagaのJudasのPVがとても面白かったので久々の更新。これはGaga自身がディレクションを行ったという。もちろん曲もいい。Gagaは歌がうまいなあ。

GagaのPVといえば、「愛の嵐」を彷彿とするAlejandroのPVには圧倒された。それにくらべれば今回のJudasはつくりとしてはシンプルだが、前作から引き継いでいるキリスト教的なモチーフが真正面から取り上げられていて、いかにも、さあ解釈してくださいというメタファーやアレゴリーの嵐で、その誘惑に引き込まれてしまった。

とはいえ、そういう作業というのは、中にあらかじめ隠された意味を掘り起こそうというものではない。むしろ逆である。解釈することによって意味が生まれるのだ。初めは意味なんてないのだ。意味は、いつだってあとからついてくる。歴史もそうである。

ともあれ、どんなPVかといえば、これである。できれば、ハイクオリティーで大きな画面で見てほしいです。




冒頭の場面からして、ぞくぞくしてくる。ヘルスエンジェルスさながらの革ジャンバイカーの背中にカメラが回ると、PHILLIP、THOMAS、そしてJUDAS、SIMON、そしてJOHNである。おお、これはイエスの12使徒ではないか。このシーンでもうすっかりやられてしまった。JOHNといえば、話はそれるが、むかし読んでいた翻訳本の中に「バックがつくった『ジョンの情熱』という曲は・・・」という一節があり、なんのことかと思ったら、バッハ(Bach)のつくった「ヨハネ受難曲」(John's Passion)のことだった。こんな翻訳がまかりとおっていた時代もあったのだ。


それはさておき、このどくろマークの革ジャンの、ヘルス・エンジェルスばりのバイカーが街をひた走るシーン、どこかで見たことあると思ったら、フェリーニの「ローマ」にそっくりだ。真夜中の人気のないローマの街を暴走族の集団がひた走っていく場面だ。Gaga自身、インタビューの中でフェリーニの名を出していたので、たぶんあのシーンが念頭にあったのだろう。

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先頭を行くバイクのうしろに乗っているのがGagaである。紫の衣装に、数々の宝石をまとったその放埒な姿は、ヨハネ黙示録に出てくるバビロンの大淫婦を思わせる。「女は紫と赤の衣を着て、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものや、自分の淫らな行いで満ちた金の杯を持っていた・・・この女が聖なる者たちの血と、イエスの証人たちの血に酔いしれているのを見た」(黙示録 17: 4)というところに出てくるやつだ。

その後の話の展開や、歌詞から、Gagaが扮しているのは、イエスによって回心させられたとされるマグダラのマリアらしいことがわかる。しかし、彼女の衣装やメイクは場面ごとに変わる。基本はマグダラのマリアなのだろうが、ときに異教の神殿娼婦、転じてイシスとかイシュタルなどの異教の女神だったり、ベリーダンサーのような放埒な姿のときはサロメのようだったりもする。いわば、古代における大地母神的な女性性がすべて集約されているようにも見える。

このGagaがバイクからふり返った視線の先にサングラスをかけたユダがいる。ユダはGagaを横目で見ながら、彼女の乗るバイクを追い抜いていく。やがてGagaが乗っているバイクを運転しているのが茨の冠をつけた男であることがわかる。これがイエスか。それも西洋絵画によく描かれる長髪で、憂いを含んだ表情をしたヨーロッパ風イエスではなくて、一見するとエジプトかモロッコあたりの北アフリカ中東系の顔をした、本来的には正しいイエスだ。無表情で、気弱そうで、やや困ったような顔をしているのがいい。

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そして、I’m in love with Juda-as, Juda-as とユダの名を連呼する歌が始まる。この歌は(マグダラのマリアの?)ユダへの愛をうたったものなのだ。聖書では、ユダはイエスを銀貨30枚で異教徒に売り渡した裏切り者である。そしてマグダラのマリアといえば、聖書ではイエスによって悪霊を祓われ(ルカ8: 2)、イエスの死後、その復活を見届けた女性(ヨハネ20: 17)とされている。イエスの教えに身を捧げた敬虔な聖女として、後世にはマグダラのマリア信仰までもが生まれている。そのマグダラのマリアが裏切り者ユダを愛するという、一般的なキリスト教解釈からすれば異端的な内容である。

だが、それはあくまで一般的解釈であって、実際には今日聖書として認められているもの以外の外典や偽典などもふくめれば、正統とされる解釈もまた歴史の中でつくられてきたものであることがわかる。たとえば、マグダラのマリア=娼婦というのも伝承である。聖書には一言もそんなことは書いていない。しかし民間伝承では、姦通の罪を犯したときに捕まり、石打ちされようとしたところにイエスが通りかかり、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者だけ、この女に石を投げよ」といった(ヨハネ8: 1-11)というエピソードや、イエスの足を涙でぬらし髪の毛でぬぐった「罪深い女」のエピソード(ルカ7: 36)などがマグダラのマリアと結びつけられている。また、グノーシス派の聖典では、マグダラのマリアは、イエスに「深く愛された者」とされ、それに想を得た『ダヴィンチ・コード』ではイエスの子を身ごもったという設定になっている。そんなさまざまなエピソードに見られるように、マグダラのマリアは古代の異教的な女神(女性性)とキリスト教の聖母マリアをむすびつける媒介者のような存在として立ち現れている。

PVに戻る。バイクの一行が到着するエレクトロ・チャペルでの宴。これは最後の晩餐に相当するのだろうな。

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When he comes to me, I am ready 
I’ll wash his feet with my hair if he needs
Forgive him when his tongue lies through his brain
Even after three times, he betrays me

I’ll bring him down, bring him down, down
A king with no crown, king with no crown

歌詞、よくわからないのだが、だいたいの意味としては、

彼(ユダ?)が来るなら受け入れるわ
髪で足を洗ってあげるわ
嘘をついても許してあげる
3度嘘をついて、私を裏切ってもかまわない。
私は彼を下ろしてあげる
無冠の王である彼を


この場合の「彼」はイエスではなく、ユダだろう。イエスにしたように、もし望まれればユダの足を自分の髪で洗いましょう、そしてなんど裏切られても、彼を許しましょう。イエスのように十字架ではりつけになったとしたら、私が下ろしてあげましょう。茨の冠をかぶせられたイエスと同じように、というようなことだろうか。「3度の嘘」というのは、最後の晩餐の後、ニワトリが鳴く前に、ペテロが3度イエスを知らないといったというエピソードのことだし、無冠の王というのはイエスのことだ。

宴の踊りの中では、つぎのような歌がうたわれる。

I’m just a Holy fool, oh baby he’s so cruel
But I’m still in love with Judas, baby

私は聖なる愚者。彼は残酷な人よ。
でも、まだユダを愛しているわ。


「聖なる愚者」とは聖人の称号のようなものだ。聖人というのは端からすると愚かに見える。塔に上がりっぱなしの砂漠の聖シメオンも、鳥と話をしたフランチェスコも、狂気と紙一重ゆえに聖者とされた人たちだ。で、Gagaマリアも自分はそうだというわけだ。ここでGagaの目元のメイクが、古代エジプトのホルスの目のようになっている。ホルスの目はなんでも見通すという意味のシンボルとされている。一方、ユダはというと、残酷で、ちょっと危ないやつという役回りだ。PVの中でも、キリストよりも不良っぽくてワイルドだし、激しやすくて喧嘩っぱやい。秩序を乱す、危険な存在である。

I couldn't love a man so purely
Even darkness forgave his crooked way
I've learned love is like a brick, you can
Build a house or sink a dead body

こんなにもひたむきに、ひとりの男を愛したことはなかった
暗闇でさえ、彼の卑劣なやりかたを見過ごしたわ
愛はレンガのようなもの
家を建てることもできれば、死体を沈めることもできる


この最後のフレーズ、Build a house or sink a dead body と歌いながら、Gagaマリアはピーター(ペテロ)の革ジャンを着た背中をぽんぽんと叩く。ペテロはイエスにしたがって水の上を歩こうとして途中で怖れて疑いをいだいたために沈みかけたことがある(マタイ14: 23-33)。また、イエスが捕らえられた後、イエスを知らないといって裏切る。Gagaマリアのぽんぽん叩きは、そうしたエピソードのメタファーっぽい。

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PVのストーリーが一般的なイエス伝承を外れていくのは3分20秒を過ぎたあたりからである。エレクトロ・チャペルの中で、イエスに近づくユダをマグダラ"Gaga"マリアがおしとどめる。聖書では、ユダがイエスに近づくのは、イエスを捕らえようと待ちかまえている者たちに、自分が接吻した人こそがイエスだと知らせるためだ。PVではGagaマリアはその策略に気づいて、ユダのイエスへの接近を押しとどめ、ユダに銃口を向ける。ところが、その銃口から出てくるのは真っ赤なリップスティックで、Gagaマリアはそのリップでユダの唇を塗ると、その場に倒れてしまう。

これはどういうことなのか。このシーンに重なる歌詞はこうなっている。訳はあいまいだが。

In the most Biblical sense,
I am beyond repentance
Fame hooker, prostitute wench, vomits her mind
But in the cultural sense
I just speak in future tense
Judas kiss me if offensed,
Or wear ear condom next time

聖書にしたがえば、私は改悛なんか縁のない女
悪名高い娼婦、心だって吐きだしてしまった
でも、じつはちがうの
私は未来形で話しているだけのこと
ユダ、もし咎めだてされたりしたら、私にキスして。
つぎは耳にコンドームをつけてね


I wanna love you,
But something's pulling me away from you
Jesus is my virtue,
Judas is the demon I cling to
I cling to

あなたを愛したいの
でも、なにかが私をあなたから引き離そうとしている
イエスは私にとって善そのもの
ユダは悪魔 
そんなあなたに私はひかれている


耳にコンドームをつけて、というのがよくわからない。耳をふさいでしまえ、つまり、まわりのいうことに耳を貸すことなんかないわ、というユダへの励ましだろうか。そうだとしたら意味は通じるが。

ここでイエスとユダとの間に割って入るGagaの衣装が気になる。黒装束で、頭部をすっぽりと覆う帽子のようなものと赤いマント。首からつり下げた十字架。それまでの娼婦や踊り子風の衣装とはちがって、これは僧衣を思わせる。縦に長い帽子は、ローマカトリックで枢機卿とか法王がかぶっているものに似ている。そして銃口をユダに向けているとき、エジプト風のアイメイクをして、道化を思わせる衣装をまとったGagaが上の歌詞をラップ調でうたう。黒い枢機卿帽のGagaは、いわばカトリック的な権威の象徴のようにも思われる。ユダを裏切り者として断罪する存在。ところが、このシーンで道化のGagaは、未来形で見ると、それはちがいますと示唆しているように見える。道化とは一種の「聖なる愚者」Holy Foolであり、真実を語る者でもある。

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このあと銃口からはリップスティックが出て、Gagaはそれでユダの唇を塗ってから苦しそうに崩れ落ちる。カトリック教会としては、ユダはイエスを裏切らなくはならなかった。裏切りによって、イエスが処刑され、罪を担うとともに、ユダがいっさいの悪行の責めを負うという形こそが、カトリックのドグマにとっては必要だった。だから、いずれにしても、ここでユダが殺されることはなかった。だが、そのカトリック的な枢機卿Gagaがユダの唇にリップを塗る。それはどういう意味なのだろう。

ここで急に場面が変わって、洗礼盤を思わせるバスタブでイエスの足を洗うGagaとそれを見つめるユダ、そして津波のような洪水に飲まれていくフォーマルなドレスを着たGaga、そして群衆に祝福を与えるイエスの姿が交互に映し出される。洪水と、水による洗礼は相似をなしているのだろう。洪水によって洗い流されるフォーマルドレスのGagaはなにものなのだろう。そのタイトなメタリックなドレスはどことなく人魚(異教の神?)を思わせるとともに、そのフォーマルさが権威の象徴のようにも見える。彼女は水に飲まれて沈んでしまう。その一方で洗礼の行われるバスタブではイエスとユダがともに水に足を浸している。そしてユダはリップスティックを塗られた唇で、イエスに接吻をする。

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それはもはや聖書にいわれるような、裏切りのための偽りの接吻ではない。Gagaが同性愛の擁護の活動を熱心に行っていることから、これをイエスとユダとの同性愛と見ることもできるかもしれないが、そうではないだろう。たとえ、そうであっても、これはむしろイエス的な価値観と、ユダ的な価値観を、Gagaマリアが結びつけたという意味ではないだろうか。そして、それはカトリック教会によっておとしめられたユダの地位を復権させるという意味も含んでいるように思われる。

聖書では裏切り者として語られるユダだが、ユダにまつわる伝説の中にはユダの地位を高いものするものは少なくない。シリアの「トマス行伝」ではユダはイエスの双子の兄弟とされていたという。宗教学者のバーバラ・ウォーカーは「ユダとイエスはひとつに合体して、ちょうどエジプトのホルスとセトの場合と同じように、定期的に交代し合う一柱の季節の神を形成していた可能性がある」(「神話・伝承事典」)と述べている。また、古代にはユダ崇拝があり、中世にはユダヤ人の間では聖ユダ信仰が盛んだったという。

中でも近年、エジプトで発見された「ユダの福音書」では、ユダこそがイエスがもっとも心を許していた一番弟子であり、イエスは弟子の中でユダにだけ救済のための秘密を語ったとされている。今日のキリスト教解釈のベースとなっているのはローマカトリックの神学であり、その典拠をなしているのは、マタイ、ルカ、マルコ、ヨハネの四福音書をはじめとした、いわゆる本屋で「聖書」として売られているものに収められている文献だ。けれども、初期キリスト教の時代には、トマスやヤコブ、ペテロなどの名を冠した福音書が数多く存在し、その神学も多岐にわたっていた。

「ユダの福音書」やエジプト南部のナガハンマーディーで写本が見つかった「トマス福音書」などは、「叡智」を介して教会をとおさず直接神とかかわろうとするグノーシス派と呼ばれる宗教思想にもとづいている。グノーシス派がどんなものかということをいいだすとややこしくなるのでふれない。ともあれ、「ユダの福音書」では、ユダの行為は神の意志とされ、イエスを死なせることによって、イエスの中にある神性を肉体から解放して、天の家に帰すという役割を果たしたとされている。そこではユダは裏切り者ではない。また、「ユダの福音書」には、カトリックにおいてなにより重要とされるイエスの復活についての記述もない。原罪という観念も希薄である。イエスの死そのものに、それほど関心が払われていない。そこで描かれているキリスト教は、今日常識とされているカトリック的なキリスト教観とはまるでちがう。

GagaのJudasが「ユダの福音書」をベースにしているかどうかはべつとして、ここでGagaがユダを愛し、復権させたというアイデアは、初期キリスト教の時代には、けっして突拍子もないものではなかったのはたしかだ。キリスト教の神学やイエス像というのは、視点を変えることによって、じつはまったく異なる語られ方がされていた。GagaのJudasは、そのことを思い出させてくれた。

PVにはまだつづきがある。最後に白いゴスロリ風衣装を着たGagaが通りで群衆に石で打ち据えられているシーンだ。姦通をした女が石で打ち据えられそうになるエピソードは、聖書にも記されているが、ここで石を投げつけられているのは、それまでにさんざん出てきた娼婦Gagaではない。これはだれなのか。正直よくわからないのだけれど、これは聖女、つまり本当の意味で 「聖なる愚者」Holy Fool として生まれ変わったマグダラのマリアなのではないか。イエス(善)とユダ(悪)を和解させ、ユダの行為を肯定し、復権を図ったことによって、彼女は聖女となった。その髪が黒と白のまだら模様になっているのは、イエスとユダとの一体化のメタファーかもしれない。

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しかし、民衆は彼女を受け入ない。結局、生まれ変わったGagaマリアは、打ち据えられて死んでしまう。こうした考え方が世間には受け入れられないということを表しているのではないか。ホルスの目をしたGagaが歌い終わったあと涙を流すのは、そのためではないか。考え出すときりがないので、これくらいに。やれやれ、すっかり長くなってしまった。。。


テーマ : 洋楽 ジャンル : 音楽

04:09  |  Rock  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

2010.06.01 (Tue)

Perfume 「ナチュラルに恋して」

前回のLady Gagaから、また半年ぶりの更新である。自分の聞いている音楽についての覚え書きくらいのつもりで始めたのだが、年2回だと、10年でも20回。これでは覚え書きどころではない。更新回数をもう少し増やすために、スタイルを変えてみることにした。これからは、1. 短くする、2. ぶっきらぼうにする、3. 解説しない、4. 説得しない、5. 時間をかけない、6. 自分のために書く、7. 推敲しない、8. まとめない、で書いてみようかと思う。


と書いてみたものの、そんなふうに書かれたものなど、自分でも読みたくないな。。。なんて悩むから書けなくなるんだな。そういうことも気にすまい。


で、半年ぶりがまたPerfumeである。同じ人は扱わないつもりだったのだけど、この春に出た「ナチュラルに恋して」と「不自然なガール」もすごくいいので、やはり半年ぶりの再開はPerfumeだ。仕事中は聞かないけれど、気分が滅入ったときや、車に乗っているときや、たまにiPodもって外に出るときはPerfumeを聞いたり見たりすると、しみじみとPerfumeがいてよかったと思う。


ナチュラルに恋して(初回限定盤)(DVD付)



それは自分にとってももちろんそうなのだが、あ~ちゃんとのっちとかしゆかにとっても、Perfumeがあってよかったなあと、べつにまったく関係ないのに、そんなことを思って親心のようにほっとする。なんなのだろう、この気持ちは。たんに完全にミーハーだということか。


前にも書いたけど、この高揚感は自分に欠落していた時代とのシンクロ感のようなものをPerfumeをとおして感じられるせいかもしれない。それは現代とのシンクロ感覚であるだけでなく、自分の若い時代とのシンクロ感覚でもある。でもノスタルジーとはちがう。彼女たちが表現している世界が、もっとリアルで、現在進行形の感覚として感じられるのである。それがふしぎだ。


そういえば、1年以上前だったか、『新建築』という雑誌を見ていたら、建築家の原広司が、だれかにPerfumeがいいと薦められて、なんとなく動画を見てみたら、いつのまにかしょっちゅう見るようになって、何でいいのかわからないが見ないではいられなくなったというようなことを、かなり破綻した途方に暮れたような文章で書いていた。原広司は、東大の名誉教授でもう70歳を過ぎているはずだが、その気持ちはよくわかる気がする。そうなのだ、なんだかよくわからないけど、かきたてられるのだ。それはAKBとかからはまったく伝わってこないなにかだ。


「ナチュラルに恋して」のあのパステルカラーの衣装と、さわやかで、かろやかで、小気味いいダンスの楽しさ。ナチュラルとは対照的な「不自然なガール」の不自然な人工性の美しさ。けれども、ダンスの魅力の奥に、なにか独特の感覚的イメージ、クオリアというやつかな、それが喚起されるのだ、Perfumeの場合は。



「ナチュラル」はその歌詞や旋律やリズムが、春の快活な光や、かるい風や、とりどりの花の色などをよびおこすようで、その永遠に過ぎ去らない、イデーのような春の気分の中に引き込まれてしまう。腕を組んでスキップするように歩く3人の姿が、幸福の原像のように思われてしかたがない。昨春の「ワンルーム・ディスコ」にしても、昨夏の「ナイト・フライト」にしても、そこに歌われている世界が、けっして自分の経験と結びついているわけではない。にもかかわらず、なんともいえない手触りのあるせつなさがこみあげてくる。



あと、やはり直角二等辺三角形ツアー・バージョンの「edge」はカッコいい。「誰だっていつかは死んでしまうでしょ
だったらその前にわたしの一番硬くてとがった部分をぶつけてsee new world」の「see new world」と「死ぬわ」をかけているところもぞくぞくする。





結局、長くなってしまったし、ミーハー文になってしまった。でも、Perfumeがいてくれて、ほんとうによかった。





03:13  |  Japan Pops  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2009.11.02 (Mon)

Lady Gaga「The Fame」

気がつけば前回のエントリーから半年である。1カ月たつと上に広告が出てくるのだが、これが2カ月たつとサイトに雑草が生えてきて、3カ月たつと画面の色が褪せてきて、そのうち壁が剥がれ落ちたり、サイトに動物が住み着いたりして、やがて廃墟になってしまうというシステムになっていたら面白そうである。そんなことにならないよう、短くても、まとまりがなくても書くようにしたい、などといっても相変わらず説得力がないな。


で、半年ぶりの更新はLady Gaga(レディー・ガガ)である。

ザ・フェイム


流行りの洋楽を積極的に聞くこともないので、マライア・キャリーとか、ブリトニー・スピアーズとかビヨンセとか名前は聞いたことはあっても、顔もわからないし、なにを歌っているのかも知らないし、たぶん耳にしたことはあるのだろうけど思い出せない。どれも同じに聞こえてしまうのかもしれない。けれども、たまたまYouTubeで耳にした(目にした)あるPV(Promotion Video)に目を奪われた。それがLady GagaのPoker Faceだった。



シンセサイザーの静かなベース音に合わせて、革のボディスーツのLady Gagaが、プールの中から水を滴らせながら現れる場面に目を引きつけられる。おお、なんとサスペンスタッチでかっこいい! イコライザーのかかった単調な声とリズム、豪邸でのデカダンなパーティー。サビのシーンではどこかレトロな印象を与える青いレオタード姿の彼女が男をしたがえて、はげしく踊るシーンに心がふるえた。途中で彼女がかけているレンズがディスプレイになっているメガネもほしい。最後のサビでは、見るからに草食系イケメン男子が、彼女にとらえられて食われるのを待つばかりという感じで、もうここまで来ると、どうにでもしてくれいという気になる。動画が枠からはみだしているけれど、それもLady Gagaらしいからまあいいや。


感動したといえばそうなのだが、単純にカッコいいというのともちがう。これでもか、これでもかというほど、こってりした演出の過剰さはスマートさや洗練とは異質だ。一見、かぎりなくイロモノに近いし、ダサイといってもいい。でも、そのダサさが過剰なあまり、悪趣味を通りこして、逆に独特な様式美へと昇華されている。「ダサかっこいい」のだ。サウンドにも映像にも70年代や80年代の記号と近未来的なイメージがごった煮のようにちりばめられ、そこから匂い立つ一種のデカダンがフェリーニの映画(「サテリコン」や「カサノバ」とか)を見たときに感じるような、おなかいっぱい感、けれども、くせになる快感を呼びさます。


露出の激しい衣装や体の動きだけ見ればセクシーを通りこしてエロなのだが、ここまで過剰な演出で見せられるといやらしく感じられない。エロティシズムとは隠すことによってかき立てられる想像力から生まれる。けれども、ここまであけっぴろげにやられると、エロスというよりキッチュである。けれども、滑稽にはおちいらず、ぎりぎりのところでかっこよさを保っている。露出がはげしくても、男への媚びのない甘さのない自己演出のせいかもしれない。なんともアンビバレントな感覚的快楽なのだ。


音楽もくせになる。覚えやすいのだが、旋律がイージーに流れたり、むりやり盛り上げたりすることなく、緊張感を保ったままつづく曲調がいい。しかも歌唱力もある。あとで紹介するピアノの弾き語りを聞けばわかるが、これほどの歌唱力がありながらロボットボイスをあえてつかって、しかも抜群の効果を上げているところがすごい。イロモノのうさんくささをしっかり残しながら、歌はなみなみならぬ本格派である。おそるべし、Lady Gaga。すっかりあてられてしまって、ほかのPVやライブ映像をあさりまくり、インタビューや紹介記事を片っ端から読む。興味のある人はWikipediaあたりにくわしいのでそっちをみてほしい。イタリア系のアメリカ人でまだ23歳だが、アンダーグラウンドからストリップの経験まであるという経歴の持ち主だ。インタビューも面白い。気がつけば、すっかりLady Gagaの虜です。


PVとしての完成度が抜群に高いのは、Paparazziである。ぼくはマドンナの「Bedtime Story」のPVが好きで、これを超える完成度のものはいまだに知らないのだが、「Paparazzi」はストーリーものの傑作である。PV中、彼女の来ている衣装の斬新さ、そして過剰な演出と、力業のような展開、ときどき挟み込まれる新聞記事など、目と耳と脳が快楽でとろけそうになる。最後のほうで、彼女が着ている黄色い服のセンスに息をのみ、最後の警察の撮影シーンで彼女が見せるポーズもたまらない。ちょっと長いけど、できれば下の方をダブルクリックして大きな画面で見よう。




ライブ映像は、さらに迫力がある。CDでは最近流行りの加工をした声が使われていたりもするが、口パクのPerfumeとちがってLady Gagaはライブでは地声で歌う。その歌声が太く、すばらしく伸びがあるうえPCで見ていてもライブ・パフォーマンスの迫力が伝わってくる。力強い、ダサいんだけどカッコいいダンス。下の映像にも見られるが、まるで「愛の嵐」(という映画があります)ではないか。女版フレディー・マーキュリーとでもいうべき様式美である。これは来日時のライブ映像。見たかったなあ。



こっちはデビュー曲のJust Dance。このときは、いっしょに踊るのは女性ダンサーだった。


ピアノの弾き語りになると雰囲気ががらりと変わる。シンセサイザーによる演奏とはすっかりアレンジを変えたPoker FaceやPaparazziは、まるでゴスペルのようなみごとな歌いっぷりに驚かされる。ただ、歌の雰囲気とはまるでそぐわない、むちゃくちゃなファッションとダンスというか、あられもないパフォーマンスにぞくぞくしてしまう。。。



セクシーなアメリカの女性ポップスターの中でLady Gagaが異色なのは、彼女の同性愛への共感のせいかもしれない。自身が同性愛者かどうかは知らないが、彼女は同性愛者のイベントに積極的に参加して、その文化を擁護する発言をくりかえしている。そのせいかどうかはわからないが彼女の演出するエロスにはある種、同性愛の表現にありがちな抽象化された型というか様式美がある。フェリーニやデレク・ジャーマンを彷彿とさせるのも、そのせいだ。ちなみに、これはPaparazziの弾き語り。シャボン玉ドレスがまたいいなあ。シャボン玉ピアノもほしい。



彼女は2009年6月に来日もしていた。ちょうどその頃はぼくは日本にいなくて、あとでYouTubeで知って悔しかった。ライブやPVのイメージとはちがってインタビューを受ける彼女は、とてもかわいらしく、それがまた意外だった。性格すごくいいではないか! お愛想とはいえ、タモリの質問に対して、シブヤのテング(天狗)でレモンサワーが美味しかったデスなんて答えるところを見て、もう好感度が200パーセントアップしてしまった。ライブ映像を見ると、Lady Gagaには女性ファンが目立つ。それはなんといっても元気のよさ、それに男や世間に媚びず、ファッションにせよ、歌い方にせよ、好きなことを好きなように表現するという姿勢のせいかもしれない。この前、来日したときのライブを見たという女の子に会って、心底うらやましかった。これはMusic Japanに出たときのインタビュー。ガガ婦人って・・・。



こっちがタモリの番組に出たとき。



そんなわけで、朝から晩までLady Gagaという日々が続いている。一時期のPerfumeとcapsule三昧のとき以上かもしれない。先日は、家人に、あなた夜中に寝言でパパ、パパラッチとか歌っていたわよといわれ、ちょっと重篤な中毒症状かもしれないと少し心配である。



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2009.05.29 (Fri)

JOHN LENNON 「ジョンの魂」

また1カ月たってしまった。やれやれ。じつは5月の連休に、さいたま市にあるジョン・レノン・ミューゼアムに初めて行った。そのあとビートルズのことや、ジョン・レノンのことを、つらつら考えていた。ジョン・レノン・ミューゼアムというのが、あるのは知っていたけれど、行きたいと思ったことはなかったし、今回だって奥さんに誘われなければ一人で行こうとは思わなかったし、たぶんいちども行かなかったと思う。


中学のときはビートルズばかり聴いていて、中でもジョン・レノンがいちばん好きだったし、解散後もジョン・レノンのアルバムだけは買いつづけていた。好きな作家の育った地を訪ねたいという気はわかるし、ぼくもそういうことをしたことはあるが、イギリスに行っても、リバプールに足を伸ばしてみようと考えたことはなかった。


どうして、そうなのか、自分でもよくわからない。たぶん、ビートルズについては、あまりにも多くの言説が氾濫していて、なにをいおうと、なにを感じようと、それらの中にからめとられそうな気がするからかもしれない。とりわけ、半ば神話化したジョン・レノンの生涯については、共感しようが、批判しようが、大きな神話体系の中から出られないという圧倒的な吸引力を感じてしまう。そこから逃れるために、トリビアのような細かいエピソードを探してビートルズという巨大建造物の地下を掘りすすむ気にもなれない。そうなると、ビートルズやジョン・レノンを語るには、自分を語らなくてはならなくなる。そんなおびただしい自分語りが、世界にはあふれかえっている。とはいえ、音楽について語るとは、結局、自分を語ることなのだけれど。

museum


でも、ジョン・レノン・ミューゼアムは行ってよかった。ジョン・レノンの思い出をたどるというより、そこに託されたオノ・ヨーコの思いに、しみじみとさせられるようなつくりだった。外にあるコーヒーが100円で飲めるしゃれたラウンジもよかった。


いまはビートルズについて無数の本や文章が手にはいるけれど、ぼくがビートルズを熱心に聴いていた1970年代の初め頃は、そうではなかった。中学生であった自分が手に入れることができたのはレコードについていたライナーノーツのほかは、レコード屋に置いてあった東芝が出した無料の小冊子だけだった。探してみたら、本箱の奥から出てきた。「THE BEATLES FOREVER」という60ページほどの冊子で、1972年に出たものだった。先日、中学時代の同級生と話をしたら、みんな持っていた。

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このうすい冊子には、ビートルズの全ディスコグラフィーと、当時出ていたソロアルバムのリストと解説が載っていた。文章を寄せていたのも横尾忠則、一柳慧、加藤和彦、星加ルミ子、松山猛など、いま思えばなかなかの人たちばかりで、とくに横尾忠則のイラスト入りの手書きの文章は、過剰なまでのビートルズへの帰依を臆面もなく、赤裸々につづったもので、当時の自分にはかなりショックだった。

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「ビートルズが右へ行ったら、ぼくも右、左へ行ったらぼくも左です... ... ビートルズはぼくの神です。... ... ぼくはビートルズのエーテル体です。ぼくの秘密はビートルズです」と横尾忠則は書いていた。ああ、こんなことまで文章でいってしまってもいいんだ。滝に身を投じるようにビートルズと自分を一体化させている、その文章は、いま読んでもビートルズによる自分語りのきわみだと思う。逆にこれを読んでしまったがために、自分はこれほどの愛情を口にすることはできないと思ってしまい、ビートルズについて言葉をもつことをためらうようになったのかもしれない。


ぼくにとってビートルズは古くて、謎や神秘に満ちた巨大なお屋敷のようだった。正門から入ると、そこには「ヘイ・ジュード」とか「抱きしめたい」といった、だれでも知っている、わかりやすい世界があるのだけれど、中には無数の部屋や庭や迷路や離れがあって、そっちのほうには「アイ・アム・ザ・ウォルラス」とか「ワイルド・ハニー・パイ」とかがあり、さらに奥の方に入っていくと「レボリューション 9」などの迷宮がある。映画「イエロー・サブマリン」で見たメンバーの部屋みたいに、中に分け入るほどに別世界が広がっていく。それは中学生にとっては、リアルな全世界よりも広く感じられた。


さらに庭の奥の森の中には、当時のお小遣いではとても買う勇気のもてない「ジョンとヨーコ/未完成作品 第2番」とか、ジョージ・ハリスン「電子音楽の世界」といった想像もつかない世界が広がっている。そんな奥地に踏み込むのは、とても勇気のいることだったが、初めて、その世界をかいまみせてくれたのが「ジョンの魂」というアルバムだった。

ジョンの魂 ~ミレニアム・エディション~
ジョン・レノン
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鈍感な中学生の自分にも、この作品が、いまにも切れてしまいそうなほどぴんと張りつめた糸からなっていることは感じられた。音楽を聴いて痛々しさを感じるということがあるのだとおどろいた。もちろん、商品である以上、そこには計算された世界観なりコンセプトがあるのだろうが、それでも痛いときには痛いと声に出していいのだ、ということを、このジョン・レノンの作品ほどストレートに教えてくれたものはない。そのころは歌というのは強がったり、怒ったりするものだと、夢見たりするものだと思っていた。でも、痛い、つらい、さびしいと叫んでもいいし、それでもなおかつ、しみったれていないというのは衝撃だった。


ぼくはジョン・レノンの平和運動には興味がないし、ロックンロールもそんなに好きではない。年末にやっているジョン・レノン・スーパーライブというイベントも見たいと思ったこともないけれど、でも、つらいときや、痛いとき、ふいに口をついて出てくるのは、このアルバムに入っている「アイソレイション」という曲だったりする。ただ、同じくジョン・レノンのつくった痛々しいビートルズ・ナンバーである「ヘルプ」が、イトーヨーカ堂の食品売り場の定番BGMになっているのは、なんとかしてほしいよなあ。

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